閑話 用事1
本来は本稿版のみに収録する予定だった場面ですが、今回は掲載することにしました。
第三話の裏側で、水野桂一が何をしていたのか。
栞の家を出てから、桂一はそのまま自宅へ戻らなかった。
住宅街を抜け、少し走ったところにあるコンビニの駐車場へ車を入れる。
店から離れた端へ停めても、エンジンは切らなかった。
エアコンの風だけが、静かな車内を流れている。
桂一はスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。
目的の名前を見つける。
少しだけ迷ってから、発信した。
呼び出し音が鳴る。
一回、二回、三回。
出ない。
「まあ、そうだよな」
四回目。
『はい』
桂一は、一瞬スマートフォンの画面を見た。
「……出るんだ」
『電話を掛けてきたのは、あなたでしょう』
「いや。かけてくるときは別だけど、俺からの電話はいつも出ないだろ」
『そうでしたか』
「そうでしたか、じゃないよ」
『では、用件をどうぞ』
「相変わらずだな」
ほんの短い間があった。
『ああ。相沢さんの件ですね』
桂一の表情が変わった。
「……待て」
『はい』
「なんで相沢のことだって知ってる?」
『何のことでしょう』
「まだ何も話してないだろ」
『そうですね』
「そうですね、じゃない」
桂一は座席から少し身体を起こした。
「俺が電話した。それしか情報ないよな?」
『ええ』
「なのに、なんで相沢が出てくる」
灰島は答えなかった。
「灰島」
『急ぎなのでしょう』
「……」
『私がなぜ知っているかを聞くために、電話したわけではないはずです』
「こういうところ嫌いだよ」
『承知しています』
「絶対承知してないだろ」
問い詰めても、今は答えるつもりがない。
桂一は小さく息を吐いた。
「今日、佐原さんと山に入った。有害鳥獣の罠を見に」
『相沢さんも同行した』
「……ああ」
『そこで何かあった』
「そういうこと」
『続けてください』
やはり。
知っている範囲がおかしい。
けれど、それを追及するのは後でもできる。
「人の声を真似るのに会った」
電話の向こうが、わずかに静かになった。
『誰の声ですか』
「俺」
『相沢さんには、あなたの声として聞こえた』
「ああ」
『名前を呼ばれましたか』
「呼ばれた」
『その前に、相沢さんはあなたの名前を口にしていますか』
桂一が眉を寄せる。
「……した」
『先に?』
「そう。無線がうまく繋がらなくなって、焦って俺の名前を呼んだらしい」
『なるほど』
「知ってるの?」
『続けてください』
「またそれか」
桂一は、山で聞いた栞の話を順番に伝えた。
小さなものを見つけたこと。
ほんの数歩のつもりで離れたこと。
景色が分からなくなったこと。
トランシーバーから、誰も送信していないはずの雑音が聞こえたこと。
『無線もですか』
「そこは意外そうだね」
『ええ。少なくとも、私が想定していた範囲より広い』
「何を想定してたんだよ」
『続けてください』
「ほんと答えないな」
その後。
栞が桂一の名前を呼んだ。
すると今度は、桂一の声が栞の名前を呼んだ。
『返事は』
「一回は確実にしてる」
『一回は?』
「本人は一回だけだって言ってる。ただ、途中から意識と身体が噛み合ってなかったらしい」
『二度目については、本人にも確証がない』
「ああ」
『一度目は何と』
「今行きます」
『その後も呼ばれた』
「少なくとも、もう一回は。『相沢、こっちだ』って」
『二度目の返事は不明』
「そう」
桂一は少し黙った。
「佐原さんも気にしてたんだけどさ」
『はい』
「なんで回数がそんなに重要なんだ?」
灰島は、あまりにも当然のことを聞かれたように答えた。
『一度呼ばれて、一度近づいたのでしょう?』
「ああ」
『なら、二度目もあるかもしれない。それだけです』
「……それだけ?」
『一度成立したやり取りが、もう一度繰り返される可能性を考えるのは普通では?』
「怪異の話してるのに、ずいぶん普通の答えだね」
『怪異だからといって、何でも特別な法則にする必要はありません』
「じゃあ、一回なら問題ない?」
『返事が一度であれば、おそらく問題ありません』
「おそらく?」
『二度目が確認できていませんから』
「結局そこか」
『分からないものは、分からないまま扱うしかありません』
「それは俺も同意」
フロントガラスの向こうでは、買い物を終えた家族が車へ戻っていく。
子どもが菓子の袋を持って走っている。
いつもの夕方だった。
『姿は見ましたか』
「ああ」
『相沢さんも?』
「見てる」
『どのように』
「黒い人影。腕が何本も重なってるように見えたって」
『あなたには?』
「……」
『水野さん』
「俺は逆光じゃなかったんだよ」
『そうですか』
「横から入ったからね。普通に見えた」
『相沢さんとは、違うものが見えていた』
「ああ」
桂一は、あの瞬間を思い出した。
木々の間。
栞の背中。
その向こうにあったもの。
『どのような姿でしたか』
「人型」
『それだけではありませんね』
「何で分かる」
『それだけなら、あなたはもう少し簡単に話します』
「嫌なところ見てるな」
『何度かお話していますので』
桂一は少し黙った。
「腕が多かった」
『何本』
「分からない」
『見えなかった?』
「違う。見えたよ」
即答した。
「多すぎて、数える気にならなかった」
『腕は、身体から生えていましたか』
「……それも違うな」
『では?』
桂一は言葉を探した。
「背中から生えてるって感じじゃなかった」
『じゃあ?』
「身体の後ろに、腕が広がってた。……仏像みたいに」
『光背のように?』
「そういう綺麗なもんじゃない」
『なるほど』
「分かるの?」
『想像はできます』
「知ってるんじゃなくて?」
『同じものだと断定できません』
「相変わらずだな」
『ええ』
桂一は座席へ身体を預け直した。
「佐原さんも見た」
『反応は』
「かなり悪かった。猟銃を構えて怒鳴ってたよ」
『発砲は?』
「してない」
『それで結構です』
「本人は、声でも出さないと呑まれそうだったって」
『そうでしょうね』
桂一の目が細くなる。
「今の返事、早かったな」
『何がでしょう』
「知らないものに対する返事じゃない」
『似た話なら、いくつもあります』
「そういうことにしとくよ」
少し間が空いた。
『あなたは?』
「何?」
『同じように圧されましたか』
桂一はすぐには答えなかった。
怖かった。
あれを見た瞬間、身体の奥で危険だと分かった。
それでも。
栞のところまで走った。
腕を掴み。
引き戻した。
昔なら。
同じように動けただろうか。
「怖かったよ」
『それだけですか』
「前よりは、動けるようになったのかもね」
『慣れましたか』
「慣れたっていうのとは違うと思う」
『では?』
「怖くても、そこで止まってる場合じゃないって分かるようになった」
『なるほど』
「佐原さんは山なら、俺なんかよりずっと上だよ。あの人が止まれって言ったら、俺は止まる」
『ええ』
「ただ、今日みたいなのが相手なら……少しだけ、俺の方が動けるようになってるのかもしれない」
口に出してから。
桂一は少しだけ眉を寄せた。
「嫌な成長だな」
『成長には違いありません』
「褒められてる感じしないけど」
『褒めてはいませんので』
「だと思った」




