3-5 帰宅
第三話-4
「じゃあ行くか」
「はい」
二人は車へ乗り込んだ。
桂一がエンジンをかけると、止めている間に熱のこもった車内へエアコンの風が流れ始めた。
「暑い……」
「山の中より暑く感じるな」
「日陰でしたからね」
「水、まだある?」
「あります」
「気分悪くなったらすぐ言って」
「はい」
車がゆっくりと走り出す。
バックミラーの中で、さっきまでいた山が少しずつ遠ざかっていった。
栞はしばらく何も言わず、窓の外を見ていた。
畑。
民家。
電柱。
道路脇の自動販売機。
見慣れたものが増えてくるにつれて、山の中で起きたことだけが、別の場所の出来事だったように感じられてくる。
「大丈夫?」
桂一が聞いた。
「はい」
答えてから、少し考える。
「……たぶん」
「たぶんか」
「身体は大丈夫です。頭の方が、まだちょっと」
「まあ、そうだろうね」
栞は自分の脚を見る。
もう震えてはいない。
ちゃんと、自分の意思で動く。
それでも。
止まれと考えているのに、勝手に前へ進んでいった感覚だけは、まだ鮮明に残っていた。
「桂一さん」
「ん?」
「不思議なんですが」
「何が?」
「こんなに怖い思いをしたのに、もう仕事したくないとは思わないんですよ」
桂一が一瞬だけ横を見る。
「そうなの?」
「はい」
「結構怖がってたけど」
「怖かったですよ。今でも思い出すと嫌です」
「じゃあ、何で?」
栞は少し考えた。
「次は、もっと気をつけようって思うんです」
「……次は?」
「はい」
「次がある前提なんだ」
「ありますよね?」
「俺に聞く?」
「市影譚を続けてたら、何かしらは」
「まあ、ないとは言えないけど」
「だったら、次はもっと上手く立ち回れる気がします。名前を呼ばない。勝手に離れない。何か見えても、一人で確認しに行かない」
「今日の反省会だな」
「全部、今日やったことですから」
「俺も名前呼んだけどね」
「それは忘れません」
「そこは忘れてよ」
栞は少し笑った。
「それに、分からないこともたくさんできちゃいましたし」
桂一が黙る。
少しして、小さく笑った。
「佐原さんが言ってた意味、分かった気がする」
「何がです?」
「俺と似てるって話」
「今さらですか?」
「認めたくなかったんだよ」
「失礼ですね」
「普通、あんな目に遭ったら『もう山には行きません』って言うだろ」
「山には、しばらく行きたくないですよ」
「しばらくなんだ」
「そこは大事です」
「やっぱり似てるな」
「桂一さんに言われたくないです」
今度は二人とも笑った。
ほんの少しだけ。
車内の空気が軽くなった。
しばらく走ってから、栞がふと思い出したように言った。
「桂一さんにも、見えていたんですよね」
「ああ。そうだね」
「私が佐原さんに聞かれたとき、特に何も言わなかったので、見ていないのかと思ってました」
「うん」
返事はする。
けれど。
なんとなく歯切れが悪い。
栞は桂一の横顔を見る。
「えっと……私には、黒い影がもじゃもじゃしていた感じに見えたんですけど」
「――いやっ」
思わず。
そんなふうに口から出たようだった。
桂一が一瞬、口を閉じる。
「……同じだよ」
「今の、絶対一緒じゃない」
「一緒だって」
「同じじゃないですよね!」
「細かいところはいいだろ」
「よくないですよ」
「もう山から降りたんだから」
「そういう問題じゃないです」
栞はじっと桂一を見る。
「何が見えてたんですか?」
「同じようなものだよ」
「『ような』が増えました」
「気のせい」
「絶対何か隠してますよね」
「隠してない」
「じゃあ教えてください」
桂一は答えない。
前だけを見ている。
「桂一さん」
「運転中」
「喋るくらいできますよね」
「安全運転に集中してる」
「さっきまで普通に話してたじゃないですか」
「……」
「ほら」
「別に、今聞かなくてもいいだろ」
その一言で。
栞は少しだけ察した。
見えなかったから言わないのではない。
見えたから言わない。
それも、自分が見たものより。
おそらく。
もっとはっきり。
「怖かったんですか?」
今度は少しだけ声を落として聞いた。
桂一はすぐに答えた。
「怖かったよ」
そこだけは。
いつものようにあっさりしていた。
「じゃあ、私を助けに来たときは?」
「怖かった」
「でも、普通に動いてましたよね」
「普通ではなかったと思うけど」
「佐原さんも驚いてました」
「佐原さんは山の人だからね」
「桂一さんの方が平気だったように見えました」
桂一は少し考える。
「平気ではないよ」
「はい」
「ただ、こういうときに怖がってる暇がない、っていうのは前より分かるようになったかもね」
「経験?」
「たぶん」
桂一は前を見たまま続けた。
「佐原さんとは経験の種類が違うんだよ。山のことなら、俺なんか全然かなわない」
「でも、今日みたいなのは?」
「……少しだけ、俺の方が慣れてるのかもね」
自分で口にしてから。
桂一は、わずかに眉を寄せた。
「嫌な慣れ方だけど」
「そうですね」
「佐原さんみたいになりたいところは、そこじゃないし」
「どこなんです?」
「引く判断とか、人を見るところとか。あの人、適当に見えて結構ちゃんと見てるから」
「尊敬してるんですね」
「してるよ」
そこは迷わなかった。
栞は少しだけ笑う。
「本人には言わないんですか?」
「言わない」
「何で?」
「気持ち悪がられるから」
「それはちょっと分かります」
「ひどくない?」
また少しだけ。
いつもの空気が戻る。
栞は窓の外へ目を向けた。
山はもう、かなり遠くなっていた。
「そういえば」
「何?」
「前に聞いた話なんですけど」
「どれ?」
「佐原さんと初めて会ったときの」
桂一の表情が少しだけ変わる。
「ブルーシートの?」
「はい」
以前、桂一から聞いたことがある。
山奥で。
豚熱を疑われたイノシシとして運ばれていたもの。
異様なほど厳重にブルーシートへ包まれ。
最後まで。
イノシシとして処理されたもの。
「あれ、今日のと同じなんですか?」
「ああ、あれは違う」
桂一は言い切った。
「違うんですか?」
「うん」
即答したわりに。
その先が続かない。
栞は待った。
「……」
「……」
「どうして分かるんです?」
「俺も、そうかもとは思ったんだけどね」
「はい」
「たぶん違う」
「何が違うんです?」
少し間が空いた。
「少なくとも、あんなに腕は付いてなかったと思うからね」
「……」
栞はすぐには意味を理解できなかった。
「あんなに?」
「うん」
「何本あったんですか?」
「ちゃんとは見てない」
「でも今、腕って」
「ブルーシート越しだからね。形が変だったのは覚えてる。でも今日のやつみたいには見えなかった」
「じゃあ、別の何か?」
「そこまでは分からない」
桂一はすぐに線を引いた。
「今日のやつが何なのかも分からないし、あのとき運んだものが何だったのかも分からない。分からないものを二つ並べて、別物だって断定するのも変だろ」
「確かに」
「俺が言えるのは、見えた形が違ったってことだけ」
栞は窓の外を見る。
遠くに。
別の山が連なっている。
「山って」
「ん?」
「何種類いるんでしょうね」
「やめてよ」
桂一が苦笑した。
「それ、数える前提じゃん」
「だって、今日のと前のが違うなら」
「知らなくていいこともあるよ」
「桂一さんが言います?」
「俺だから言うんだよ」
「説得力があるような、ないような」
「あることにしといて」
それから少しして。
桂一が言った。
「今日は家まで送るから」
「大丈夫ですよ。いつものところで」
「今日は家まで」
「でも」
「佐原さんにも言われただろ」
「言われましたけど」
「それに、明日も迎えに行く」
栞が顔を向ける。
「本当に?」
「本当に」
「そこまでしなくても大丈夫ですって」
「二回目に返事してないって確信できないだろ」
栞は黙った。
「一度なら大丈夫なのかも、何度でも同じなのかも、それすら分からない」
「……はい」
「だったら、分からない間くらいは気をつけよう」
「佐原さんと同じこと言いますね」
「似てるからね」
「認めるんですか?」
「そこは認める」
「都合いいですね」
「そういうもの」
住宅街へ入る。
栞の家が近づいてくる。
「本当に明日も来るんですか?」
「行くって言っただろ」
「仕事ですよね?」
「仕事」
「私、普通に行けますよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「今日は俺がそうしたいだけ」
さらりと言われ。
栞は少し黙った。
「……分かりました」
「よろしい」
「子ども扱いしないでください」
「明日まで我慢して」
「延びてます」
車が栞の家の前で止まった。
「着いた」
「ありがとうございます」
シートベルトを外す。
そこで。
栞は自分の胸元を見る。
『Penasonic』
「これ、洗って返しますからね」
「そのまま持ってていいよ」
「要りません」
「まだ言う?」
「何回でも言います」
助手席のドアへ手を伸ばしたところで。
玄関が開いた。
「あら」
母だった。
「おかえり」
「ただいま」
その視線が、すぐに桂一の車へ向く。
「あら、水野さん?」
栞は少し嫌な予感がした。
桂一も車を降りる。
「こんにちは」
「今日は送っていただいたんですか?」
「ちょっと山の方へ行ってまして」
「山?」
母の視線が栞の全身を上下する。
「何、その服」
「聞かないで」
「……Penasonic?」
「だから聞かないで」
桂一が横で笑う。
「笑わないでください」
「いや、ごめん」
母が桂一へ向き直った。
「いつも栞がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
桂一はそう答えてから、改めて母の顔を見た。
「それにしても、すごくお若いですね」
破顔して言う。
「栞さんが何も言わなかったら、お姉さんかと思ってましたよ」
「あらやだよ。もうそれなりの歳になるんだから」
「栞さんが童顔なの、お母さんに似てるんですね」
「もう、水野さんはタレントさんみたいね」
母はすっかり機嫌をよくしたらしい。
「ほら、上がっていきなさい。お茶くらい出すから」
「お母さん」
「いいじゃない。いつもお世話になってるんだから」
栞は桂一を見る。
こういうところだ。
初対面でも、相手が嫌がらない距離を見つけるのが早い。
桂一本人に言わせれば、別に特別なことはしていないと言うのだろうけれど。
「ありがとうございます」
桂一は丁寧に頭を下げた。
「でも、今日はまた今度で」
「あら、そう?」
「片付けもありますし、用事も一つあるので」
「そうなの」
「はい」
「じゃあ今度は絶対よ」
「分かりました」
桂一はあっさり約束した。
栞は、その横顔を見る。
用事?
今日はもう、取材の予定などなかったはずだ。
山で使ったものを片付ける。
それは分かる。
でも、用事?
何だろう。
少し考えて。
栞は納得した。
たぶん、口実だ。
今日あんなことがあったばかりで、そのまま家へ上がり、母と長話を始めれば自分も疲れる。
それを考えて。
適当な理由をつけただけなのだろう。
「じゃあ」
桂一が車へ戻る。
「今日はちゃんと休んで」
「はい」
「何かあったら連絡」
「分かりました」
「明日の朝、迎えに来る前に連絡するから」
「本当に来るんですね」
「行くって言っただろ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「誰かさんの真似です」
「誰だろうね」
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
車が走り出す。
栞は、しばらくその後ろ姿を見送った。
本当に。
用事があったのだと知るのは。
翌朝になってからだった。




