3-4 降る
軽トラックが見えたところで、栞はようやく山を抜けたのだと実感した。
それでも桂一は足を緩めなかった。
「車まで行こう」
「はい」
腰に回された腕も、そのままだった。
佐原は二人より少し遅れて山から出てきた。
猟銃を構えたまま、一度だけ木々の奥を振り返る。
しばらく銃口を下ろさなかった。
畑の向こうには、夏の山がある。
蝉が鳴いている。
風に葉が揺れている。
何事もなかったような景色だった。
軽トラックまで戻って、佐原はようやく猟銃を下ろした。
何も言わず、胸ポケットへ手を入れる。
煙草を一本抜き、口にくわえた。
ライターを取り出す。
カチ。
火がつかない。
カチ。
もう一度。
カチ。
三度目も、小さな音だけが鳴った。
栞は、朝の車内で桂一から聞いた話を思い出した。
かなりのヘビースモーカー。
作業が一段落すれば、まず一本。
そんな人が、朝は栞の前で一本も吸わなかった。
四度目。
ようやく火がついた。
佐原が深く吸う。
細い紫煙が、夏の空気へ立ち上っていった。
今は栞が、すぐそばにいる。
それでも佐原は煙草を吸った。
その指が、わずかに震えていたことは。
栞は見なかったことにした。
桂一も、何も言わなかった。
「座れ」
佐原に言われ、栞は軽トラックの荷台へ腰を下ろした。
その途端、脚から力が抜ける。
「水」
桂一がペットボトルを差し出した。
「ありがとうございます」
蓋を開けようとして、自分の手も少し震えていることに気づいた。
「ゆっくりでいいよ」
「はい」
一口。
もう一口。
冷たい水が喉を通る。
ようやく身体の輪郭が、自分のものに戻ってくるような気がした。
佐原は煙草を半分ほど吸ったところで、栞の前に立った。
「何があった。最初からでいい」
怒鳴ったときの勢いはもうない。
ただ、いつもより声が低かった。
栞は、罠を直している二人を見ていたところから話した。
視界の端で、小さなものが動いたこと。
「子猫くらいの大きさでした。黒っぽくて……茶色にも見えました」
「ウリ坊だと思ったのか」
「はい。追いかけるつもりはなかったんです。木を一つ回れば見えるかな、くらいで」
「それで離れた」
「……はい」
佐原の眉間に皺が寄った。
「気づいたら、どっちから来たのか分からなくなってました。ほんの数歩しか歩いてないと思うんですけど」
「そこで動いたか?」
「いえ。分からないのに動いたら余計に迷うと思って、その場で止まりました。それから無線を」
「無線?」
佐原の目つきが変わった。
「はい。最初に『三番です』って。それから一番と二番を呼びました。でも返事がなくて、ずっとザザッて音だけしてました」
「誰か喋ってたか?」
「そこまでは分かりません。誰かが送信しているようにも聞こえました」
佐原が桂一を見る。
「お前、無線使ったか」
「使ってない」
「俺もだ」
煙草を挟んだ佐原の指が止まった。
「……無線まで使うのか」
桂一も眉を寄せる。
「今までなかった?」
「少なくとも俺は聞いたことがねぇ」
栞は、その言葉に引っかかった。
だが佐原は、それ以上説明しなかった。
「それで?」
「焦ってしまって……つい、桂一さんって呼びました」
佐原が目を閉じる。
「すみません」
「今はいい。続けろ」
「二番って言い直したんです。でも返事がなくて。そのあと、後ろから桂一さんの声がしました」
桂一が栞を見る。
「何て?」
「『相沢、どこにいる』って」
「俺は言ってない」
「分かってます。でも最初は、本物だと思いました」
佐原がすぐに聞いた。
「返事したか?」
「はい。『今行きます』って」
「そのあとも呼ばれたんだな」
「はい。今度は『相沢、こっちだ』って。二回くらい……」
「二度目に返事は?」
栞は答えようとして、止まった。
「……してないと思います」
「思います?」
「返事しないようにしてました。でも、その頃には身体が自分のものじゃないみたいで」
山の中での感覚が蘇る。
止まれと考えている。
逃げろとも思っている。
なのに脚だけが前へ出た。
「だから、絶対にしてないとは……言い切れません」
佐原が黙った。
桂一も、何も言わない。
「一度目は確実に返した。二度目は、分からねぇんだな」
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、それまで以上に佐原の表情は険しくなった。
「振り向いたら、黒いものがいました。最初は人だと思ったんです。でも……」
「でも?」
「腕が、多かったです」
佐原の顔から、わずかに血の気が引いた。
「何本だ」
「分かりません。数えられる感じじゃなくて。肩の後ろから何本も重なっているみたいで……人の腕なのに、数だけがおかしいというか」
思い出すだけで、背中が冷える。
人の形だった。
けれど人間の形には収まっていなかった。
黒い身体の後ろで、幾つもの腕が扇のように重なっていた。
一瞬だけ。
栞には、仏像の背後に広がる光背のようにも見えた。
ただし。
あれを神々しいとは、とても思えなかった。
「それから、勝手に脚が動き始めました。止まろうとしても止まらなくて、声も出なくて」
「そこに俺が来た」
桂一が言った。
「はい」
栞はペットボトルを握った。
「……すみませんでした」
「嬢ちゃんが謝ることじゃねぇ」
佐原が即座に言った。
「でも、勝手に離れたのは私です」
「それは次からやめろ」
「……はい」
「それで終わりだ」
佐原は煙を吐いた。
「初めて山入る人間連れてきて、俺ら二人で作業に夢中になって目ぇ離した。俺の責任だ」
「俺もだよ」
桂一も続ける。
「そこにいてって言って、それで大丈夫だと思ってた。数歩くらいなら気づけると思ってたしね」
「でも――」
「相手が悪かった」
桂一が言った。
佐原が、低い声で付け加える。
「悪すぎた」
栞は二人を見る。
佐原は山へ視線を向けた。
「あんなもんが出るなんて分かってりゃ、嬢ちゃん連れて入ってねぇよ」
「佐原さんは、あれが何か知ってるんですか?」
「知らん」
即答だった。
「知らんが、近づいていいもんじゃねぇことくらいは分かる」
佐原は吸いかけの煙草を見る。
「俺だって、あれ見た瞬間に身体止まりかけたからな」
「佐原さんも?」
「ああ」
栞は驚いた。
山の中で聞いた怒鳴り声。
猟銃を構え、黒いものへ向かって叫んだ佐原。
「じゃあ、あの声は……」
「声でも出さねぇと、こっちが呑まれそうだった」
佐原は苦々しく言った。
「威嚇なんて格好いいもんじゃねぇよ。半分は自分に言ってた」
栞は、もう一度山を見る。
佐原ですら。
あれに圧された。
なら。
「二番はよく動けたな」
佐原が言った。
「俺?」
「あの状況で、嬢ちゃん引っ張り戻しただろ」
「まあね」
「怖くなかったのか」
「怖かったよ」
桂一はあっさり答えた。
「でも、怖いときに動かなきゃいけないのは、何度か経験してるから」
「慣れるもんじゃねぇぞ」
「俺も慣れたくはないよ」
その言い方は軽かった。
けれど栞は。
山の中で自分を掴んだ腕の強さを覚えていた。
「……捕まった人はいるんですか?」
恐る恐る聞いてみた。
「いねぇ」
佐原は即答した。
栞は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「いないんですね」
「いねぇよ」
佐原は山を見たまま続けた。
「もう、たぶんこの世にいねぇってことだ」
「……」
ぞっとした。
今度は身体の内側ではなく。
背中を冷たいものが這った。
「どこ探してもいねぇんだ。山ん中探しても、沢見ても、道見ても出てこねぇ」
「それって……」
「昔から、そういう話はある」
「名前は?」
「ねぇよ。少なくとも俺は知らん」
佐原は少し考えてから言った。
「俺は勝手に、狩人って呼んでるだけだ」
「狩人」
「あっちからすりゃ、人間が獲物なのかもしれねぇだろ」
栞は返事ができなかった。
「まあ」
佐原が栞から桂一へ視線を移す。
「調べねぇようにな」
「何で俺を見るの」
「お前が一番やりそうだからだ」
「今日は行かないよ」
「今日は、な」
「信用ないな」
「あるわけねぇだろ」
少しだけ。
張り詰めていた空気が緩んだ。
佐原も、それを狙ったのかもしれない。
声色を変えて、今度は桂一の腰へ目をやった。
「そういや、ナイフ。持ってきてたんだな」
「まあね」
桂一が作業着の腰あたりへ手を当てる。
「使う機会はないとは思ったけど」
栞は、二人のやり取りに少し違和感を覚えた。
あのとき。
桂一の手に握られていたナイフ。
咄嗟に抜いたにしては、妙に手に馴染んでいるように見えた。
「立派なナイフに見えましたが、狩猟用なんですか?」
答えたのは桂一ではなかった。
「分からん」
佐原だった。
「ただ、何か良いやつらしい」
「らしい?」
「俺も詳しくは知らん」
桂一が、改めて腰からナイフを抜いた。
夏の日差しを受けて、刃が鈍く光る。
薄く油を引いたような艶。
刃には、波打つような不思議な刃文が浮かんでいる。
対して持ち手は、何重にも黒いテープが巻かれていた。
刃だけを見れば妙に立派なのに。
柄だけは、長年使われた工具のようだった。
「お下がりだよ」
桂一が言った。
「佐原さんからの?」
「うん」
「俺も、もらったんだけどな」
佐原がぼそりと言う。
「佐原さんも?」
「ああ」
「誰から――」
「まあ仕舞え。帰るぞ」
佐原が話を切った。
自分から振ったくせに。
これで終わりだと言わんばかりに、軽トラックの荷台を閉める。
「罠は?」
桂一が聞いた。
「明日だ。仲間に連絡して、何人かで入る」
「俺も行く?」
「来んな」
「何で」
「今日は休め。明日もだ」
佐原は栞を顎で示した。
「嬢ちゃんといろ」
「……分かった」
「二度目に返事してねぇなら、多分大丈夫だ。だが、本人が覚えてねぇんじゃ仕方ねぇ」
栞が口を開く。
「そこまでしてもらわなくても――」
「するよ」
桂一が遮った。
声は穏やかだった。
それでも、断らせるつもりがないことだけは分かった。
「今日は家まで送る。明日も迎えに行く」
「でも」
「一日くらい付き合って」
「……分かりました」
佐原が頷く。
「それでいい」
猟銃をケースへ収めると、そのまま運転席へ乗り込んだ。
「じゃあな。罠はこっちで何とかする」
「佐原さん」
栞が呼び止める。
「今日は、ありがとうございました」
佐原は一瞬だけ栞を見る。
「礼はいらん。次から離れんな」
「はい」
言うが早いか。
エンジンが掛かった。
軽トラックは砂利を踏み、畑の間を走り出す。
あっという間に遠ざかっていく。
「……早いですね」
「佐原さん、帰るって決めたら早いから」
二人で、その後ろ姿を見送った。
やがて軽トラックが見えなくなる。
桂一が、自分の車へ向き直った。
「じゃあ行くか」
「はい」
栞も、その後を追った。




