↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/70

3-3 怪異

 嘘だ。


 ありえない。


 心臓が。


 大きく跳ねた。


 ドッ。


 ドッ。


 ドッ。


 早鐘を打つ音が。


 うるさいくらい身体の内側へ響いている。


 栞は。


 立ち尽くしていたはずだった。


 なのに。


 一歩。


 脚が前へ出た。


「……え」


 もう一歩。


 自分で歩こうとした覚えはない。


 意識と身体が。


 切り離されてしまったような感覚だった。


 行ってはいけない。


 分かっている。


 あそこへ近づいてはいけない。


 目の前にいるものは。


 二番ではない。


 それなのに。


 脚だけが。


 声のした方へ向かっていく。


 恐ろしい。


 止まりたい。


 助けを呼びたい。


 けれど。


 喉から声が出ない。


『相沢、こっちだ』


 また。


 桂一の声。


 今度は。


 はっきり分かった。


 違う。


 これは。


 桂一ではない。


 聞き慣れた声なのに。


 違う。


 二番のはずがない。


 佐原から。


 名前を呼ぶなと言われている。


 さっき。


 桂一自身も間違えて。


 あれほど叱られたばかりだ。


 本物なら。


 こんな呼び方はしない。


『相沢、こっちだ』


 止まれ。


 止まれ。


 止まれ。


 頭の中で。


 何度も繰り返す。


 それでも。


 脚は止まらない。


 一歩。


 また一歩。


 黒い影との距離が。


 少しずつ縮まっていく。


 近づくにつれ。


 形が。


 わずかに見えてきた。


 人のようだった。


 けれど。


 人ではない。


 肩のあたり。


 いや。


 肩なのかどうかも分からない。


 黒い輪郭の左右から。


 細いものが。


 何本も伸びている。


 腕。


 そう見えた。


 一対ではない。


 二本でもない。


 重なって。


 垂れて。


 枝のように。


 幾つも。


 人の形を作ろうとして。


 途中で数を間違えたような。


 そんな輪郭だった。


 見てはいけない。


 栞の身体が。


 それを理解している。


 なのに。


 脚だけが。


 近づこうとする。


『相沢』


 黒いものが。


 呼ぶ。


『こっちだ』


 駄目だ。


 返事をするな。


 行くな。


 それなのに。


 喉が動いた。


「け――」


「――三番!」


 突然。


 後ろから腕を掴まれた。


「っ!」


 ぐい、と。


 強く引かれる。


 身体が後ろへ傾く。


 その衝撃で。


 ガクン、と。


 意識と身体が繋がった。


「はっ……!」


 息が戻る。


 音が戻る。


 蝉。


 葉擦れ。


 自分の荒い呼吸。


 そして。


 自分を掴んでいる腕。


 離さないと言わんばかりに。


 身体をがしりと抱えるように支えられていた。


 栞は振り向く。


「二番!」


「ああ」


 桂一だった。


 額に汗を浮かべ。


 息を切らしている。


 それでも。


 間違いなく。


 いつもの顔だった。


「ああ、二番だ」


 その声を聞いた瞬間。


 栞の身体から。


 一気に力が抜けかけた。


 だが。


 桂一は離さなかった。


「立てる?」


「……はい」


「よし」


 その直後。


 桂一の後ろから。


 地面を蹴る激しい音が近づいた。


「出てくるんじゃねえっ、この化け物が!」


 山が震えたように感じた。


 佐原だった。


 猟銃を構えたまま。


 こちらへ走ってくる。


 それは。


 普段。


 山の中で声を張ることすら少ない男。


 猟を生業にしている人間とは。


 なおさら思えないほどの声量だった。


 怒鳴り声が。


 木々の間へ叩きつけられる。


「一番!」


「二番!」


 佐原は答えない。


 銃口を。


 栞たちの後ろへ向けたまま叫ぶ。


「降りるぞ!」


 桂一が。


 即座に動いた。


「分かった」


 そのとき。


 栞は気づいた。


 自分を支えているのとは反対の手。


 桂一の右手に。


 ナイフが握られていた。


 腰に帯びていたもの。


 いつ抜いたのか。


 栞には分からない。


 刃先は。


 自分ではなく。


 黒い影の方へ向けられている。


「三番」


「はい」


「絶対振り向くな」


「……はい」


 桂一の空いた腕が。


 栞の腰へ回る。


 優しくではない。


 もう勝手に動かせないように。


 身体ごと固定するような力だった。


「動ける?」


「はい」


「じゃあ」


 桂一が。


 栞を自分の横へ引く。


「逃げるぞ」


 佐原が。


 猟銃を構えたまま。


 じりじりと下がる。


「二番!」


「いる!」


「三番から離れんな!」


「分かってる!」


 三人が。


 山を下り始める。


 栞は。


 自分でも驚くほど素直に足を動かした。


 さっきまで。


 あれほど言うことを聞かなかった脚が。


 今度は。


 桂一の動きに合わせて動いている。


 一歩。


 また一歩。


 下る。


「足元だけ見て」


「はい」


「後ろ見るなよ」


「はい」


「転びそうなら言って」


「はい」


 返事をする。


 それだけで。


 自分の声が。


 ちゃんと自分のものだと確認できた。


 後ろから。


 枝が折れる音がした。


 栞の肩が跳ねる。


「見るな」


 桂一がすぐに言う。


「はい」


 見ない。


 見たくない。


 それでも。


 背中の向こうに。


 何かがいる。


 その感覚だけは。


 消えなかった。


「そのまま行け!」


 佐原の怒鳴り声。


「一番は?」


 桂一が叫ぶ。


「俺は後ろ見る!」


「無理すんなよ!」


「いいから行け!」


 栞は。


 足元だけを見る。


 土。


 落ち葉。


 木の根。


 自分の長靴。


 桂一の作業靴。


 それ以外を。


 見ない。


 数歩進んだところで。


 無線が。


 ザザッ。


 音を立てた。


 栞の身体が強張る。


 腰に付けたままのトランシーバー。


 ノイズ。


 その奥で。


 何か。


 声のようなものがした。


『……相……』


 桂一が。


 栞の無線を掴んだ。


 電源を切る。


「聞かなくていい」


「……はい」


 桂一自身の無線も。


 切った。


 前後十メートルも離れていない。


 今は。


 声で十分だった。


「二番!」


 佐原の声。


「いる!」


「そのまま!」


「了解!」


 三人は。


 来た道を戻る。


 栞には。


 もう。


 どこを歩いているのか分からなかった。


 だが。


 桂一は迷わない。


 佐原も。


 後ろを警戒しながら。


 確実に下ってくる。


 やがて。


 木々の隙間から。


 強い光が見えた。


 畑。


 山の外。


「もう少し」


 桂一が言う。


「はい」


「そのまま」


「はい」


 木々を抜ける。


 陽射しが。


 一気に身体へ降り注いだ。


 それでも。


 桂一は足を止めなかった。


「車まで」


「はい」


 後ろから。


 佐原も出てくる。


 三人が横並びになったが、猟銃を下ろさない。


 一度だけ。


 山の入口を睨む。


 そして。


「行け!」


 三人は。


 畑の脇を抜ける。


 軽トラック。


 桂一の車。


 朝と同じ場所。


 それが見えて。


 栞は。


 ようやく。


 帰ってきたのだと思った。


 けれど。


 誰も。


 まだ安心したとは言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。