3-3 怪異
嘘だ。
ありえない。
心臓が。
大きく跳ねた。
ドッ。
ドッ。
ドッ。
早鐘を打つ音が。
うるさいくらい身体の内側へ響いている。
栞は。
立ち尽くしていたはずだった。
なのに。
一歩。
脚が前へ出た。
「……え」
もう一歩。
自分で歩こうとした覚えはない。
意識と身体が。
切り離されてしまったような感覚だった。
行ってはいけない。
分かっている。
あそこへ近づいてはいけない。
目の前にいるものは。
二番ではない。
それなのに。
脚だけが。
声のした方へ向かっていく。
恐ろしい。
止まりたい。
助けを呼びたい。
けれど。
喉から声が出ない。
『相沢、こっちだ』
また。
桂一の声。
今度は。
はっきり分かった。
違う。
これは。
桂一ではない。
聞き慣れた声なのに。
違う。
二番のはずがない。
佐原から。
名前を呼ぶなと言われている。
さっき。
桂一自身も間違えて。
あれほど叱られたばかりだ。
本物なら。
こんな呼び方はしない。
『相沢、こっちだ』
止まれ。
止まれ。
止まれ。
頭の中で。
何度も繰り返す。
それでも。
脚は止まらない。
一歩。
また一歩。
黒い影との距離が。
少しずつ縮まっていく。
近づくにつれ。
形が。
わずかに見えてきた。
人のようだった。
けれど。
人ではない。
肩のあたり。
いや。
肩なのかどうかも分からない。
黒い輪郭の左右から。
細いものが。
何本も伸びている。
腕。
そう見えた。
一対ではない。
二本でもない。
重なって。
垂れて。
枝のように。
幾つも。
人の形を作ろうとして。
途中で数を間違えたような。
そんな輪郭だった。
見てはいけない。
栞の身体が。
それを理解している。
なのに。
脚だけが。
近づこうとする。
『相沢』
黒いものが。
呼ぶ。
『こっちだ』
駄目だ。
返事をするな。
行くな。
それなのに。
喉が動いた。
「け――」
「――三番!」
突然。
後ろから腕を掴まれた。
「っ!」
ぐい、と。
強く引かれる。
身体が後ろへ傾く。
その衝撃で。
ガクン、と。
意識と身体が繋がった。
「はっ……!」
息が戻る。
音が戻る。
蝉。
葉擦れ。
自分の荒い呼吸。
そして。
自分を掴んでいる腕。
離さないと言わんばかりに。
身体をがしりと抱えるように支えられていた。
栞は振り向く。
「二番!」
「ああ」
桂一だった。
額に汗を浮かべ。
息を切らしている。
それでも。
間違いなく。
いつもの顔だった。
「ああ、二番だ」
その声を聞いた瞬間。
栞の身体から。
一気に力が抜けかけた。
だが。
桂一は離さなかった。
「立てる?」
「……はい」
「よし」
その直後。
桂一の後ろから。
地面を蹴る激しい音が近づいた。
「出てくるんじゃねえっ、この化け物が!」
山が震えたように感じた。
佐原だった。
猟銃を構えたまま。
こちらへ走ってくる。
それは。
普段。
山の中で声を張ることすら少ない男。
猟を生業にしている人間とは。
なおさら思えないほどの声量だった。
怒鳴り声が。
木々の間へ叩きつけられる。
「一番!」
「二番!」
佐原は答えない。
銃口を。
栞たちの後ろへ向けたまま叫ぶ。
「降りるぞ!」
桂一が。
即座に動いた。
「分かった」
そのとき。
栞は気づいた。
自分を支えているのとは反対の手。
桂一の右手に。
ナイフが握られていた。
腰に帯びていたもの。
いつ抜いたのか。
栞には分からない。
刃先は。
自分ではなく。
黒い影の方へ向けられている。
「三番」
「はい」
「絶対振り向くな」
「……はい」
桂一の空いた腕が。
栞の腰へ回る。
優しくではない。
もう勝手に動かせないように。
身体ごと固定するような力だった。
「動ける?」
「はい」
「じゃあ」
桂一が。
栞を自分の横へ引く。
「逃げるぞ」
佐原が。
猟銃を構えたまま。
じりじりと下がる。
「二番!」
「いる!」
「三番から離れんな!」
「分かってる!」
三人が。
山を下り始める。
栞は。
自分でも驚くほど素直に足を動かした。
さっきまで。
あれほど言うことを聞かなかった脚が。
今度は。
桂一の動きに合わせて動いている。
一歩。
また一歩。
下る。
「足元だけ見て」
「はい」
「後ろ見るなよ」
「はい」
「転びそうなら言って」
「はい」
返事をする。
それだけで。
自分の声が。
ちゃんと自分のものだと確認できた。
後ろから。
枝が折れる音がした。
栞の肩が跳ねる。
「見るな」
桂一がすぐに言う。
「はい」
見ない。
見たくない。
それでも。
背中の向こうに。
何かがいる。
その感覚だけは。
消えなかった。
「そのまま行け!」
佐原の怒鳴り声。
「一番は?」
桂一が叫ぶ。
「俺は後ろ見る!」
「無理すんなよ!」
「いいから行け!」
栞は。
足元だけを見る。
土。
落ち葉。
木の根。
自分の長靴。
桂一の作業靴。
それ以外を。
見ない。
数歩進んだところで。
無線が。
ザザッ。
音を立てた。
栞の身体が強張る。
腰に付けたままのトランシーバー。
ノイズ。
その奥で。
何か。
声のようなものがした。
『……相……』
桂一が。
栞の無線を掴んだ。
電源を切る。
「聞かなくていい」
「……はい」
桂一自身の無線も。
切った。
前後十メートルも離れていない。
今は。
声で十分だった。
「二番!」
佐原の声。
「いる!」
「そのまま!」
「了解!」
三人は。
来た道を戻る。
栞には。
もう。
どこを歩いているのか分からなかった。
だが。
桂一は迷わない。
佐原も。
後ろを警戒しながら。
確実に下ってくる。
やがて。
木々の隙間から。
強い光が見えた。
畑。
山の外。
「もう少し」
桂一が言う。
「はい」
「そのまま」
「はい」
木々を抜ける。
陽射しが。
一気に身体へ降り注いだ。
それでも。
桂一は足を止めなかった。
「車まで」
「はい」
後ろから。
佐原も出てくる。
三人が横並びになったが、猟銃を下ろさない。
一度だけ。
山の入口を睨む。
そして。
「行け!」
三人は。
畑の脇を抜ける。
軽トラック。
桂一の車。
朝と同じ場所。
それが見えて。
栞は。
ようやく。
帰ってきたのだと思った。
けれど。
誰も。
まだ安心したとは言わなかった。




