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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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30/73

3-2 戸惑い


 山へ入って。


 ほんの数歩。


 それだけで。


 畑にいたときとは、空気が変わった。


 陽射しそのものは強い。


 けれど。


 頭上を覆う枝葉に遮られ。


 地面には、まだ朝の湿り気が残っている。


 腐葉土。


 濡れた木。


 青臭い草。


 どこかで流れている水。


 さっきまで耳を埋めていた蝉の声も。


 山の中では。


 少し遠くなったように聞こえた。


 佐原を先頭に。


 桂一。


 栞。


 三人が一列になって進む。


「足元見ろよ」


「はい」


 栞は。


 長靴の先へ視線を落とした。


 道と呼べるほど。


 きれいには整っていない。


 人が歩いた跡。


 獣が通った跡。


 雨水が流れた跡。


 それらが重なって。


 なんとなく。


 歩ける場所になっている。


「三番」


「はい」


「右、踏むな」


 佐原が言った。


 栞が見る。


 落ち葉と土。


 何が違うのか。


 まったく分からない。


「罠ですか?」


「一個ある」


「……全然見えません」


「見えたら意味ねぇだろ」


「確かに」


「俺が歩いたとこ歩け」


「はい」


 佐原の長靴の跡を。


 そのまま追う。


 途中。


 桂一が少し立ち止まった。


「三番」


「はい」


「これ」


 木の幹を指す。


 地面から。


 それほど高くない位置。


 乾いた泥が付いている。


「さっき畑の近くにあったのと同じですか?」


「そう」


「身体を擦った跡?」


「たぶんね」


 よく見ると。


 泥の中に。


 短い毛のようなものも混じっている。


「本当にここを通ってるんですね」


「朝見ただろ」


 前から佐原の声が飛んだ。


「そうなんですけど」


 栞は。


 木の幹を見る。


「解体されてるのを見るのと」


「ここにいた跡を見るのって、全然違いますね」


「どう違う?」


 二番が聞く。


「こっちの方が」


 少し考える。


「生きてた感じがします」


「……なるほどね」


 桂一も。


 泥の跡を見る。


 朝。


 吊るされていた身体。


 そこに残っていた傷。


 今。


 目の前にある足跡や泥。


 少しずつ。


 一つの生き物として繋がっていく。


「相沢、そこ滑る――」


 桂一が言った。


 三人とも。


 止まった。


「……」


「……」


 佐原が。


 ゆっくり振り返る。


「お前」


「あ」


 桂一も気づいた。


「今、何て言った」


「間違えた」


「今言ったばっかりだろ」


「ごめん」


「お前が一番先に破ってどうすんだ」


「反射で出た」


「反射で済ませんな」


 声が。


 さっきまでより低かった。


 桂一も。


 今回は笑わなかった。


「分かった」


「もう言わない」


「二番」


「はい」


「三番」


「はい」


「それでいい」


 佐原は。


 それだけ言うと。


 また前を向いた。


 三人が歩き出す。


 栞は。


 桂一の少し後ろから。


 小さな声で言う。


「怒られましたね」


「怒られたね」


「私より先にやるとは思いませんでした」


「普段そう呼んでるから仕方ないだろ」


「言い訳」


「三番も気をつけて」


「分かってます」


 そこで。


 栞は口を閉じた。


 危ない。


 普段通りに話していると。


 つい。


 桂一さん。


 そう呼びそうになる。


 名前を使わない。


 ただそれだけのことが。


 思っていたより難しい。


 それからしばらく。


 三人の会話は。


 妙にぎこちなくなった。


「二番」


「はい」


「そこ持て」


「了解」


「三番」


「はい」


「根っこ」


「ありがとうございます」


 番号。


 番号。


 番号。


 繰り返すうちに。


 少しずつ。


 耳が慣れてくる。


 さらに登ると。


 佐原が片手を上げた。


 二人も止まる。


「ここだ」


 斜面の脇。


 そこだけ。


 土が大きく荒れていた。


 枝が折れ。


 草が倒れ。


 地面が。


 何かに引きずられたようになっている。


「……これ」


 栞は。


 少し離れた場所から見る。


「朝のイノシシ?」


「ああ」


 佐原が答えた。


「ここで掛かった」


 土の上。


 何本もの線。


 深く抉れた場所。


 倒れた草。


「こんなになるんですか」


「必死だからな」


 二番が言う。


「生きるために逃げようとしてるんだから」


 栞は。


 朝見た前脚を思い出した。


 輪のように残っていた傷。


「ここで」


 口にする。


「暴れたんですね」


「ああ」


 佐原が荷物を下ろす。


「それで部品やられた」


 工具箱を開く。


 交換用の部品を取り出す。


「三番」


「はい」


「そこにいろ」


「手伝わなくていいですか?」


「いい」


「何か持つくらいなら」


「何もしないのが仕事だ」


「……はい」


 言い切られた。


 栞は。


 少し離れた木のそばへ移動する。


 佐原がしゃがむ。


 二番も横へ入る。


 二人で。


 壊れた部分を確認する。


「こっち替える?」


「ああ」


「こっちはまだ使える?」


「それはいい」


「了解」


 想像していたより。


 作業は地味だった。


 派手な仕掛けを作るわけでもない。


 位置を確認して。


 壊れた部分を替える。


 周囲を見る。


 獣の通った跡を見る。


 また位置を見る。


「少しこっちじゃない?」


 二番が言う。


「昨日暴れた分、道ずれてる」


「いや」


 佐原が地面を見る。


「こっち戻る」


「分かる?」


「跡あるだろ」


「……ああ」


 栞には。


 ほとんど違いが分からない。


 同じ土。


 同じ落ち葉。


 同じ草。


 それでも。


 二人には。


 何かが見えているらしい。


 栞は。


 少し視線を広げた。


 木。


 草。


 倒木。


 斜面。


 土。


 ところどころから落ちる光。


 何も知らなければ。


 ただの山だった。


 けれど。


 一度教えられると。


 ところどころに。


 何かが通った痕跡がある。


 泥。


 折れた草。


 浅い窪み。


 木の幹についた汚れ。


 人間には道に見えなくても。


 ここを使っているものにとっては。


 ちゃんと道なのかもしれない。


 ふと。


 何かが動いた。


「……?」


 栞が顔を向ける。


 木と木の間。


 低い位置。


 黒っぽいもの。


 ほんの一瞬。


 何かが横切った。


「猫?」


 小さく呟く。


 子猫くらい。


 いや。


 もう少し大きいかもしれない。


 茶色だったような。


 黒かったような。


 山の中で。


 猫。


 そう考えてから。


「ウリ坊かな」


 朝。


 イノシシを見たばかりだ。


 子どもなら。


 あれくらいなのかもしれない。


 もう一度。


 木の向こうで。


 何かが動いた。


「あ」


 一歩。


 栞の脚が動いた。


 追うつもりはない。


 ただ。


 何だったのか。


 少しだけ確認したかった。


 木の横へ。


 もう一歩。


 そこから見えなければ。


 戻ればいい。


 一本。


 木を回る。


 何もいない。


「……?」


 栞は。


 周囲を見た。


 さっき。


 どちらから来た。


 一瞬。


 分からなくなった。


「え?」


 ほんの数歩しか。


 動いていない。


 そう思う。


 なのに。


 正面にある景色が。


 さっきまで見ていたものと。


 少し違う。


 木。


 斜面。


 倒れた枝。


 見たことがあるような。


 ないような。


 栞は。


 その場で。


 ぐるりと身体を回した。


 山。


 どちらを向いても。


 山。


 もう半分。


 向きを変える。


 その間に。


 数歩。


 歩いたような気がした。


「……あれ」


 胸の奥へ。


 小さな焦りが生まれる。


 そこで。


 栞は止まった。


 動かない。


 焦って。


 適当に歩く方が危ない。


 分からないときは。


 まず止まる。


 それは。


 山の知識ではない。


 けれど。


 仕事でも。


 看護をしていた頃でも。


 何度もやってきたことだった。


「大丈夫」


 小さく言う。


 一番も。


 二番も。


 すぐ近くにいる。


 無線もある。


 腰のトランシーバーへ手を伸ばした。


 その瞬間。


 ザザッ。


「っ」


 突然。


 無線が音を立てた。


 ザー。


 ザザッ。


 誰かが送信しているのか。


 ただの雑音なのか。


 分からない。


 栞は無線を取る。


 送信ボタンを押した。


 一拍。


「三番です」


 返事はない。


「一番?」


 ザザッ。


「二番?」


 ザー。


 ノイズだけが返ってくる。


 少しだけ。


 焦った。


「桂一さん」


 口にしてから。


 気づいた。


「あ」


 名前。


 呼んでしまった。


 さっき。


 桂一が叱られたばかりなのに。


「……まずい」


 言い直す。


「二番」


 送信ボタンを押す。


「二番、聞こえますか」


 返事はない。


 ザザッ。


 また。


 ノイズ。


「……」


 栞は。


 耳を澄ませた。


 工具の音。


 話し声。


 さっきまで。


 すぐ近くにあったはずのものが。


 聞こえない。


「そんなに離れてないはずなのに」


 呟く。


 そのとき。


「相沢」


 栞の身体が止まった。


 後ろ。


 桂一の声だった。


「相沢、どこにいる」


「あ」


 安心が。


 先に来た。


「今行きます」


 栞は。


 振り向いた。


 木々の間。


 少し離れたところに。


 何かが立っていた。


「……」


 人。


 そう思った。


 けれど。


 黒い。


 逆光のせいなのか。


 服の色なのか。


 顔が見えない。


 木の幹と。


 影の間に。


 人ひとり分ほどの。


 黒い形がある。


「二番?」


 栞は。


 無線を握ったまま。


 その場に立ち尽くした。


 あれは桂一のはずなのに。

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