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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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3-1 好奇心


「山に?」


 驚きの混じった声だった。


「はい」


「遊びじゃねぇぞ」


「分かってます」


「暑いし、虫もいる」


「はい」


「ヒルもいるかもしれん」


「はい」


「罠もある」


「……はい」


 最後だけ。


 少し間が空いた。


 佐原は栞の足元から頭までを見る。


 今日の服装。


 そのまま山へ入るには。


 どう考えても向いていない。


「長袖」


「はい」


「長ズボン」


「はい」


「長靴」


「持ってます」


「手袋」


「あります」


「帽子」


「……ないです」


「用意しろ」


「はい」


「あと」


 佐原が指を一本立てる。


「勝手に罠触るな」


「触りません」


「勝手にどっか行くな」


「行きません」


「写真撮るなら先に聞け」


「分かりました」


「俺が止まれって言ったら止まれ」


「はい」


 そこまで確認して。


 佐原はようやく桂一を見る。


「お前んとこ、あるだろ」


「何が?」


「全部だよ」


「ああ」


 桂一が頷く。


「たぶん揃う」


「じゃあ着替えさせろ」


「了解」


「いいんですか?」


 栞が聞く。


 佐原は。


 少しだけ嫌そうな顔をした。


「もう行く気なんだろ」


「はい」


「だったら、ちゃんと格好しろ」


「ありがとうございます」


「礼は帰ってきてから言え」


 その言い方が。


 少しだけ引っかかった。


 だが。


 栞が聞き返す前に。


 佐原は作業へ戻った。


 解体を終える。


 刃物を洗い。


 血の付いた場所を流し。


 肉を分ける。


 使った道具も。


 一つずつ片付けていく。


 そこまで終わってから。


 佐原が言った。


「一服するか」


 軽トラックへ向かう。


 栞は。


 煙草を吸うのだと思った。


 けれど。


 佐原が持って戻ってきたのは。


 三本の缶コーヒーだった。


「安いコーヒーで悪いな」


「十分」


 桂一が答える。


 次の瞬間。


 一本が飛んできた。


「おっと」


 桂一が受け取る。


「危ないな」


「落とせば面白かったのによ」


「何で俺だけ投げるの」


「ほら」


 佐原は。


 栞には普通に手渡した。


「ありがとうございます」


「この差は何?」


「嬢ちゃんは落とさなそうだからな」


「俺も取っただろ」


「つまらん」


「理不尽だな」


 栞は缶を開ける。


 冷たい。


 朝から気温は上がり続けていた。


 日陰に入っていても。


 じっとしているだけで汗が滲む。


 佐原も缶コーヒーを開けた。


 それだけだった。


 煙草は出さない。


「飲んだら行くか」


 佐原が言う。


「罠の部品ある?」


 桂一が聞く。


「それを取りに寄るんだよ」


「ああ、そっか」


「壊されたままじゃ置けねぇからな」


「じゃあ現地集合?」


「ああ」


「了解」


「俺は家寄って部品取ってくる」


 佐原は缶を飲み干す。


「お前らは先行くなよ」


「行かないよ」


「信用してねぇ」


「ひどいな」


「実績がある」


 桂一が何も言えなくなった。


 栞は少し笑った。


「じゃあ」


 佐原が栞を見る。


「着替えてこい」


「はい」


 桂一の家の中へ戻り。


 しばらくして。


 栞は鏡の前で。


 何とも言えない顔をしていた。


 濃い青色の作業着。


 明らかに大きい。


 袖を折り。


 裾も折り。


 ベルトで何とか調整している。


 問題は。


 サイズだけではなかった。


 左胸。


 白い刺繍。


『Penasonic』


「……」


 栞は見つめる。


 もう一度。


 読む。


『Penasonic』


「桂一さん」


「何?」


「これ」


「うん」


「Panasonicじゃないですよね」


「Penasonicだね」


「何ですか、これ」


「作業着」


「それは分かります」


「じゃあ問題ないだろ」


「ありますよ」


 桂一が胸元を見る。


「ああ、それ?」


「それです」


「昔もらった」


「どこから」


「電気屋の倉庫片付け手伝ったときだったかな」


「本当に?」


「たぶん」


「覚えてないんですか?」


「結構前だからね」


 栞はもう一度。


 胸元を見る。


「偽物なんですか?」


「何の?」


「Panasonicの」


「そもそもPenasonicって書いてあるだろ」


「そうですけど」


「偽物にもなれてない」


「余計ひどいじゃないですか」


「欲しかったらあげるよ」


「要りません」


 即答した。


 長靴は。


 栞自身のものがある。


 現場取材用に用意したものだ。


 手袋も。


 桂一のところには何種類か揃っていた。


 作業用。


 薄手。


 厚手。


 ゴム引き。


「何でこんなにあるんです?」


「仕事によって使うの違うから」


「ホームセンターみたいですね」


「便利だろ」


「褒めてません」


 帽子。


 タオル。


 虫除け。


 飲み物。


 念のため塩分補給用の飴。


 桂一自身も。


 朝の解体用とは別の。


 長袖の作業着へ着替えた。


「帽子はちゃんとかぶって」


「日射病対策?」


「それもあるけど」


 桂一が言う。


「上から虫落ちてくることあるから」


「上から?」


「毛虫とか」


「……帽子かぶります」


「その方がいい」


「電気虫もいます?」


「いるかもね」


「電気虫って、本当に電気出すわけじゃないですよね」


「イラガの幼虫」


「刺さると痛いやつ」


「そう」


「絶対触りません」


「見つけても近づかないこと」


「子どもじゃないです」


「佐原さんにも同じこと言われると思うよ」


「やめてください」


 準備を終える。


 佐原は。


 すでに軽トラックで出たあとだった。


 桂一と栞は。


 少し遅れて車に乗る。


 助手席へ座った栞は。


 シートベルトを締めて。


 胸元を見た。


『Penasonic』


「……本当にこれで行くんですね」


「まだ気にしてるの」


「気になりますよ」


「山のイノシシは読めないから大丈夫」


「そういう問題じゃないです」


 車が走り出す。


 住宅が減る。


 田畑が増える。


 山が近づいてくる。


 しばらくして。


 栞が言った。


「佐原さん」


「ん?」


「ああ見えて、結構優しい人ですね」


 桂一が少し笑う。


「分かった?」


「缶コーヒー」


「ああ」


「桂一さんには投げたのに、私にはちゃんと手渡しでした」


「そこ?」


「違うんですか?」


「あの人、ああ見えて女性には甘いんだよ」


「やっぱり」


「でも、缶コーヒーより分かりやすいのあっただろ」


「何です?」


「煙草」


 栞は。


 少し考える。


「……吸ってませんでしたね」


「だろ」


「吸わない人なんじゃないんですか?」


「逆」


「逆?」


「あの人、かなりのヘビースモーカーだよ」


「そうなんですか?」


「作業終わったら、まず一本って人」


「今日は全然」


「相沢がいたからだと思う」


「私?」


「あの人、俺らより年上の娘さんいるんだけど」


「はい」


「若い女の人の前で煙草吸うなって言われてるらしい」


 栞が笑った。


「ちゃんと言いつけ守ってるんですね」


「そういうところ真面目なんだよ」


「意外です」


「本人には言わない方がいい」


「どうして?」


「優しいですね、なんて言ったら機嫌悪くなるから」


「褒めてるのに」


「そういう人」


 栞は。


 窓の外を見る。


 無愛想。


 口数も少ない。


 少し怖そう。


 最初はそう思った。


 けれど。


 服装も。


 虫も。


 罠も。


 先に危険を教えてくれた。


「不器用な人なんですね」


「まあね」


「桂一さんと仲いいの、ちょっと分かった気がします」


「どこが?」


「似てるところありますよ」


「ないよ」


「即答」


「あの人に似てるって言われるの嫌だな」


「今度、本人に言ってみます」


「やめて」


 十分ほど走り。


 道路脇に。


 佐原の軽トラックが見えた。


「あれだ」


 桂一が速度を落とす。


 軽トラックの後ろへ。


 車を停めた。


 外へ出る。


 むっとした空気が。


 一気に身体を包んだ。


 蝉。


 草の匂い。


 湿った土。


 目の前には畑。


 そのすぐ先に。


 山がある。


 佐原は。


 すでに荷台を開けていた。


「遅ぇ」


「十分も変わらないだろ」


「山じゃ十分ありゃ結構進む」


「はいはい」


 荷台には。


 スコップ。


 工具箱。


 交換用の金具。


 ワイヤー。


 袋。


 容器。


 見慣れない道具がいくつも積まれている。


 その中に。


 栞は。


 細長いケースを見つけた。


「その細いやつは、もしかして」


「ああ」


 佐原が答える。


「猟銃だよ」


「やっぱり」


 栞は。


 少しだけ距離を取って見る。


「今日も使うんですか?」


「罠に掛かってればな」


 佐原はケースを持ち上げた。


「距離を取って止め刺しするのが安全だ」


「止め刺し?」


「捕まえた獣の処理」


 桂一が補足する。


「罠に掛かってても、まだ生きてるのが普通だからね」


「ああ……」


 朝のイノシシを思い出す。


 吊るされていた身体。


 前脚に残っていた傷。


「あの罠だけじゃないんですか?」


「何ヶ所か置いてる」


 佐原が言う。


「壊れたやつ直したついでに、他も見る」


「何か掛かってるかもしれないから?」


「ああ」


 栞は猟銃を見る。


「だから持っていくんですね」


「使わねぇで済めば、それが一番だけどな」


 佐原はケースを肩へ掛けた。


 弾は。


 必要になるまでは込めないらしい。


 そのあたりは。


 栞が想像していた以上に慎重だった。


「桂一さんは持ってないんですか?」


「銃?」


「はい」


「持ってないよ」


「狩猟するのに?」


「俺は罠だけ」


「銃は?」


「許可も保管も色々あるしね」


 桂一は肩をすくめた。


「俺の場合、そこまでして持つ必要がない」


「近所にも知られるんでしたっけ」


「許可の審査で、警察が近隣に聞き取りすることもあるみたいだね」


「それはちょっと気を使いそう」


「悪いことしてるわけじゃないけど」


 桂一が言う。


「今のところ罠だけで足りてる」


「こいつに銃まで持たせたら面倒だ」


 佐原が口を挟んだ。


「どういう意味?」


「気になったらどこでも入ってく奴だろ」


「銃持ってても入らないよ」


「そういう話じゃねぇ」


 栞が笑う。


「何笑ってんだ」


「何でもないです」


 佐原は。


 相手にせず。


 畑の方を指した。


「行く前に、ここ見ろ」


 山の手前。


 畑の端。


 草が不自然に倒れている。


 栞が近づく。


「これ……」


 人が踏んだようにも見える。


 だが。


 一本の道のように。


 草が同じ方向へ押し倒されていた。


 少し先では。


 土も掘り返されている。


「イノシシですか?」


「たぶんな」


 佐原がしゃがむ。


「ここ通ってる」


 桂一も見る。


「結構はっきりしてるね」


「一回二回じゃ、こうはならねぇ」


「山から畑に?」


「ああ」


 佐原が立つ。


「収穫前になると、こうやって下りてくる」


「さっきのイノシシも?」


「同じ個体かは分からねぇ」


 倒れた草。


 その先。


 木々の間へ。


 細い道のようなものが続いている。


「罠は?」


「もう少し上だ」


 朝見た。


 前脚の傷。


 あれができた場所が。


 この先にある。


「その前に」


 佐原が軽トラックへ戻る。


 助手席から。


 黒いケースを取り出した。


「何です?」


「無線」


 蓋を開ける。


 トランシーバーが三台。


 並んでいる。


「持ってきたんだ」


 桂一が少し意外そうに言う。


「ああ」


「いつも持ってたっけ?」


「今日はな」


 佐原が。


 栞を見る。


「嬢ちゃんいるからだ」


「私?」


「俺とこいつだけなら、多少離れても分かる」


 一台を桂一へ。


 もう一台を栞へ渡す。


「初めての奴がいるなら、あった方がいい」


「ありがとうございます」


「この先、携帯入らねぇところあるからな」


「そんなに奥なんですか?」


「奥じゃなくても入らんとこは入らん」


「山だと普通にあるよ」


 桂一が電源を入れる。


「チャンネルは?」


「いつもの」


「了解」


 栞も真似する。


「ここ押して喋る」


 佐原が横のボタンを示す。


「押したら一拍置け。すぐ喋ると最初切れるからな」


「分かりました」


 栞が押す。


 一拍。


「聞こえますか?」


 少し離れた桂一の無線から。


『聞こえますか?』


 自分の声が返った。


「おお」


「遊ぶなよ」


「確認です」


 三人が。


 それぞれ無線を身につける。


 佐原は。


 最後に栞の格好を見る。


 長靴。


 手袋。


 帽子。


 濃い青色の作業着。


 胸元。


『Penasonic』


「……それ、何なんだ」


「聞かないでください」


「桂一に借りました」


「だろうな」


「何で納得するんですか」


 佐原は答えなかった。


 代わりに。


 山を見る。


「嬢ちゃん」


「はい」


「離れるなよ」


「はい?」


 あまりにも。


 子どもへ言い聞かせるような言葉だった。


 栞は。


 つい間の抜けた返事をしてしまった。


 佐原は笑わない。


「嬢ちゃんには」


 真面目な顔で続ける。


「桂一と似た雰囲気感じるからな」


「私が?」


「ああ」


 栞は桂一を見る。


「どういう意味です?」


「俺に聞く?」


「似てるって言われましたから」


 佐原が答える。


「気になったら見に行く」


「……」


「止めても、ちょっとだけって近づく」


 桂一が視線を逸らす。


「道があれば入る」


「……」


「心当たりあるだろ」


「まあ」


「あるんですね」


「昔の話だよ」


「今もだ」


 佐原が即答した。


 栞は。


 少し考える。


 自分は。


 桂一ほどではない。


 そう思う。


 けれど。


 朝。


 イノシシの脚に残った傷を見て。


 その場所を。


 見てみたいと思った。


 それも。


 同じなのかもしれない。


「分かりました」


「本当に離れるなよ」


「はい」


「あと」


 佐原の声が。


 少しだけ低くなる。


「名前で呼ばないようにするのは徹底しとけ」


「名前?」


「ああ」


 栞が桂一を見る。


 桂一は。


 そこでようやく思い出したような顔をした。


「ああ、そういえば」


「知ってるんですか?」


「前に聞いたことはある」


「何を?」


「山の中では、名前で呼ぶなって」


「何で?」


「さあ」


「さあ?」


「佐原さん、理由までは言わなかったから」


 佐原が。


 不満そうに桂一を見る。


「聞かなくても守りゃいいんだよ」


「守ってたよ」


「お前は二人だと呼ぶ必要なかっただけだろ」


「まあ、それもある」


「今日は三人だから?」


 栞が聞く。


「ああ」


 佐原が言う。


「俺とこいつだけなら」


「そっちどうだ」


「戻るぞ」


「聞こえるか」


「それで済む」


「確かに」


「三人じゃ誰に言ってるか分からなくなる」


 佐原が自分を指す。


「俺が一番」


 次に。


 桂一。


「こいつが二番」


 そして。


 栞。


「嬢ちゃんが三番」


「三番」


「ああ」


「無線のときだけですか?」


「違う」


 佐原が。


 山を見る。


「山入ったら、名前で呼ぶな」


「直接でも?」


「直接でもだ」


 栞は。


 少しだけ笑みを消した。


「理由は?」


 佐原は。


 すぐには答えない。


 目の前の山。


 夏の陽射し。


 明るい畑。


 その先だけ。


 木々が重なっている。


「山じゃ」


 佐原が言った。


「そうしといた方がいい」


「それだけですか?」


「それだけだ」


 栞は。


 もう一度桂一を見る。


 桂一は肩をすくめる。


「佐原さんがそう言うなら、そうしよう」


「気にならないんですか?」


「気にはなるよ」


 桂一も。


 山を見る。


「でも、入る前にルール決めてもらえるなら、その方が楽だろ」


「……そういうものですか」


「現場知ってる人に合わせた方がいい」


 佐原が荷物を持ち上げる。


「俺が一番」


「二番」


 桂一が答える。


「三番です」


 栞も続けた。


「よし」


 佐原が。


 山へ向き直る。


 倒れた草の先。


 獣の通った跡が。


 木々の間へ続いている。


「行くぞ」


 佐原を先頭に。


 三人は。


 山へ入った。

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