第三章 「山の狩人」
その朝。
栞がいつものように桂一の家へ向かうと、玄関へ回る前から裏手の方で男の声が聞こえていた。
「しかし、まさかお前がテレビに出るとはな」
「まだ言う?」
「言うだろ」
聞き慣れない、低い声だった。
「全国放送でネクタイまで締めてよ」
「朝の番組なんだから、それくらいするよ」
「昔は写真撮られるのすら嫌がってただろ」
「嫌がってない。自分から出る理由がなかっただけ」
「同じようなもんだ」
「佐原さん、ちゃんと見てたんだな」
「天気予報見てたら出てきたんだよ」
「最初から見てるじゃん」
「うるせぇ」
栞は少し笑いながら、家の裏へ回った。
「おはようございます」
「あ」
桂一が顔を上げた。
「おはよう」
今日は白いシャツではない。
汚れてもいい作業着を着て、肘近くまであるゴム手袋をしていた。
その向こうに。
もう一人。
五十代後半くらいの男がいる。
色の褪せた作業着。
長靴。
日に焼けた顔。
そして。
二人の間には。
一頭のイノシシが吊るされていた。
「……おお」
思わず声が出た。
後脚を吊られ。
大きな身体が、作業場の梁から下がっている。
すでに解体は始まっていた。
皮の一部が剥がされ。
切り分けた肉が、横に置かれた容器へ移されている。
ブルーシート。
バケツ。
包丁。
ゴム手袋。
水を張った容器。
夏の朝の空気の中で。
二人は手際よく作業を進めていた。
「ちょうどよかった」
桂一が言う。
「相沢、こっち佐原さん」
「佐原さん?」
「前に話しただろ。山の仕事とか、たまに回してくれる人」
「ああ」
そこで。
栞の口から、考えるより先に言葉が出た。
「例の」
佐原の手が止まった。
「……例の?」
「あ」
栞は桂一を見る。
桂一が微妙に視線を逸らした。
佐原もそれを見る。
「お前」
「ん?」
「話したか?」
「……さわりだけ」
「さわりだけ?」
「全部じゃないよ」
「当たり前だ」
佐原が嫌そうな顔をする。
「何を話した」
「だから、本当にさわりだけ」
「便利な言葉だな」
「市影譚を一緒にやってるんだから、多少は共有しないと」
「俺の話をか?」
「山の話を」
「同じだ」
栞は二人を見比べた。
「すみません」
「嬢ちゃんが謝ることじゃねぇ」
佐原が言う。
「喋ったのはこいつだ」
「俺だけ悪いみたいになってるな」
「お前が悪い」
「厳しいな」
桂一は苦笑した。
どうやら。
思っていたより長い付き合いらしい。
「で」
栞は吊るされたイノシシを見る。
「これ、どうしたんですか?」
「昨日掛かったやつ」
桂一が答えた。
「狩猟って、今の時期でしたっけ?」
「いや」
佐原が答える。
「これは狩猟じゃねぇ。有害鳥獣の方だ」
「有害鳥獣?」
「畑荒らしてんだよ」
佐原は作業を続けながら話す。
「ここ最近、山から下りてきてな。ちょうど収穫前になると食いに来やがる」
「何を食べるんです?」
「何でもだ」
桂一が言う。
「イノシシは雑食だからね。野菜も食べるし、芋も掘る。木の実も虫も小動物も食う」
「そんなに」
「豚の仲間だから、かなり何でも食べるよ」
佐原が続ける。
「畑の持ち主から頼まれたんだ。裏の山もその人の土地でな」
「じゃあ、そこに罠を?」
「ああ。山から畑へ下りる道ができてた」
「許可とかは?」
「取ってる」
佐原が短く答える。
「時期外れに勝手に罠置いてるわけじゃねぇよ」
「なるほど」
「畑の被害止めねぇと、収穫前に全部持ってかれるからな」
栞が一歩近づこうとすると。
「そこまででいいよ」
桂一が止めた。
「手伝わなくていいんですか?」
「今日はいい」
「でも」
「血があるから、あんまり近づかない方がいい」
桂一は自分の手袋を見る。
「ダニもいるし、野生動物だから何持ってるか分からない」
「病気とか?」
「それもあるし、寄生虫とかね」
佐原が切り分けた肉を持ち上げる。
「まあ、牡丹肉はうめぇけどな」
「牡丹肉?」
「イノシシ」
「ジビエってやつですか」
「食ったことあるか?」
「ないです」
「なら分けてやる」
「いいんですか?」
「どうせ全部食いきれねぇ」
桂一が横から言う。
「豚とは結構違うよ。よく動いてるから肉もしっかりしてる」
「硬いんですか?」
「部位と料理次第かな」
佐原が言う。
「下処理するときは血も残さねぇようにしてな。食うときはちゃんと火通せ」
「そこは絶対」
桂一も念を押した。
「ジビエは生焼けで食べないこと」
「分かりました」
「まあ、持って帰る頃には母親にも同じこと言われるだろ」
「うちの母は、ジビエの調理なんてしたことないと思います」
「まあ、普通に買うと高いからな」
栞はそう答えながら。
吊るされたイノシシを改めて見た。
最初に見たときより。
少しだけ姿が変わっている。
皮が剥がされ。
肉が切り分けられ。
ついさっきまで一頭の獣だったものが。
少しずつ。
食べ物へ変わっていく。
不思議と。
残酷だとは思わなかった。
むしろ。
久しぶりに、命そのものへ近づいているような気がした。
看護の仕事をしていた頃。
人の身体に触れることは、特別なことではなかった。
脈を取り。
呼吸を見て。
熱を測り。
傷を見る。
身体に現れるものには。
何かしらの理由があった。
今、目の前にあるのは人ではない。
もう生きてもいない。
それでも。
少し前まで。
この身体は山を歩いていた。
餌を探し。
土を掘り。
夜になれば山を下り。
畑へ向かっていた。
そう考えると。
ただの肉として見ることが、少し難しくなった。
栞の視線が。
前脚で止まった。
「……足」
「ん?」
桂一が顔を上げる。
「ここ、傷になってません?」
前脚の毛の間。
一周するように傷が残っている。
毛が抜け。
皮膚が擦れていた。
桂一が少し感心したように見る。
「気づいた?」
「これ、罠ですか?」
「ああ」
佐原が答える。
「前足に掛かってな」
「かなり暴れたんですね」
「暴れたなんてもんじゃねぇよ」
佐原が鼻を鳴らした。
「罠まで壊された」
「罠って壊れるんですか?」
「相手も必死だからな」
桂一が言った。
「生きるために逃げようとしてるんだから」
栞はもう一度、傷を見る。
「直すんですか?」
「直す」
佐原が作業台の端に置かれていた金属部品を指した。
一部が曲がり。
交換用らしい部品が、その横に置かれている。
「地主から頼まれて置いてんだからな。一頭獲れたから終わりじゃねぇ」
「まだ来るんですか?」
「来る」
「獣道ができてるからね」
桂一が答える。
「一頭だけとは限らないし」
佐原が頷く。
「同じところに置き直す」
そして。
手を止めて腰を伸ばした。
「一服したら、部品取り替えて置きに行くか」
「俺も行くよ」
桂一が当然のように答える。
「山に?」
栞が聞いた。
「うん」
「今から?」
「そんな遠くないよ」
桂一が壊れた部品を見る。
「直して、元の場所へ戻してくるだけ」
「……」
栞は。
もう一度、イノシシの前脚を見た。
この傷がついた場所。
この大きな獣が。
罠に掛かり。
生きるために暴れた場所。
地主の畑へ続く山道。
そこには。
この身体に残った傷とは別に。
まだ何かが残っているはずだった。
掘り返した土。
折れた枝。
逃げようとした跡。
見てみたい。
そう思った。
自分でも。
なぜそこまで興味を持ったのかは分からなかった。
看護の仕事を辞めてから。
こうして、生き物の身体を理由のあるものとして見ることが久しぶりだったからかもしれない。
傷を見れば。
どうしてその傷ができたのか知りたくなる。
昔の癖が。
ほんの少し。
戻ってきたのかもしれない。
「私も行っていいですか?」
二人の手が止まった。
桂一より先に。
佐原が栞を見た。




