2-6 専門家
専門家から返事が来たのは、その日の午後だった。
桂一の知人を一人挟んで紹介されたのは、大学で光学や画像計測を研究している教授だった。
名前を見て、栞は思わず二度見した。
「え、この人ですか?」
「うん」
「この教授、私でも知ってますよ」
専門分野より、テレビで見た記憶の方が先に出てくる。
科学番組だけではない。
ニュースの解説や、バラエティ番組にもたびたび出演している。
専門外の栞でも顔を知っているくらいには、有名な教授だった。
「どうやって紹介してもらったんですか?」
桂一は少し笑った。
「もし話題になったら、研究結果をメディアで解説してほしいって言ったら、普通に繋いでもらえたよ」
「……それで通るんですか?」
「向こうにもメリットあるだろ」
「まだ話題になるかも分からないのに?」
「だから、『なったら』って言った」
栞は少し呆れた。
嘘は言っていない。
できない約束もしていない。
ただ、自分たちが欲しいものと、相手にとって面白そうなものを並べただけだ。
「こういうところですよね」
「何が?」
「桂一さんが、妙にいろんな人と繋がっていく理由です」
「紹介してくれた人に礼言っといて」
「そこなんですね」
その日の夕方。
二人はホテルの部屋から、オンラインで教授の話を聞くことになった。
事前に送ったのは、写真部から提供された画像と動画。
市影譚へ寄せられた写真。
そして、栞の肘と桂一の指が歪んで写った画像だった。
『まず、時計の方からいきましょうか』
画面の向こうで、教授が動画を止める。
『これは、かなり説明しやすいです』
「やっぱりカメラ側ですか?」
桂一が聞く。
『カメラだけ、というより、時計とカメラの組み合わせですね』
時計の数字が大きく表示される。
『この表示はLEDですよね』
「はい」
『人間の目にはずっと点灯しているように見えても、実際には非常に短い周期で表示を書き換えているものがあります』
教授が別の画像を開いた。
『一方で、カメラも必ずしも画面全体を完全に同じ瞬間に記録しているわけではありません』
「ローリングシャッターですか?」
栞が言うと、教授が少し眉を上げた。
『ご存じなんですね』
「名前だけです。工業高校で少し」
『それなら話が早い』
教授が笑った。
『表示側の更新と、カメラ側の読み出し。そのタイミングが合わないと、肉眼では普通に見えている数字の一部が欠けて写ることがあります』
「だから、同じ位置から撮っても毎回消える場所が違う」
『そうです』
「動画でも、消えたり戻ったりする」
『それも不自然ではありません』
「機種によって出やすさが違うのも?」
『十分あり得ます。シャッタースピードやフレームレートなどでも変わりますから』
栞はノートへ書き込んだ。
半年間、写真部が追い続けていた現象。
その一つには、かなりはっきりとした説明がつきそうだった。
「じゃあ、こっちはどうですか?」
桂一が次の画像を表示する。
栞の肘。
桂一の指。
教授が黙った。
拡大する。
戻す。
もう一度拡大する。
『これは、時計とは分けましょう』
「やっぱり別ですか」
『少なくとも、同じ仕組みで説明するのは無理があります』
「動いたせいとか?」
栞が聞く。
『単純な動体ブレには見えませんね』
教授は少し考える。
『画像処理の失敗という可能性も完全には否定できません。ただ、場所と高さにある程度の傾向があるという話が本当なら、環境側も疑った方がいい』
「地面の熱ですか?」
桂一が聞く。
『それはあり得ます』
教授が頷いた。
『真夏の舗装面はかなり高温になります。そのすぐ上と、少し高いところでは、空気の温度がかなり違うことがある』
「陽炎みたいな?」
「はい。原理としては近いです」
栞は昨日の駅前を思い出した。
焼けるようなアスファルト。
足元から上がってくる熱気。
『空気は、温度が違えば光の進み方もわずかに変わります。そこへ風があれば、温度の違う空気が入り混じる』
「それで人が歪んで見える?」
『条件によっては』
教授はすぐに付け加えた。
『ただし、この写真だけで断定はできません』
「ですよね」
桂一はあっさり頷く。
『特定の高さ付近に偏っているように見えるのも気になります。再現性も低い』
「他に何があれば起きやすくなります?」
『路面温度。周囲との温度差。風。撮影距離や角度。それから――』
教授が少し間を置いた。
『空気中の水分ですね』
「水分?」
『霧や細かな水滴があれば、局所的に空気が冷えることがあります。そうすると温度差が一時的に強くなることもある』
桂一の表情が少し変わった。
「湿度が高いだけでも?」
『湿度だけで全部説明するのは難しいでしょうね』
「じゃあ、水そのものがある方が?」
『可能性としてはそちらです。ただ、私は現地を見ていませんから』
「十分です」
桂一が頭を下げる。
「ありがとうございます」
『むしろ、現地にいる皆さんの方が、条件を見つけられるかもしれませんよ』
通話を終えた。
部屋が静かになる。
「時計は、ほぼ答えが出ましたね」
栞が言った。
「うん」
「人の方は?」
「まだ全然」
「全然ですか」
「方向が見えたくらいだろ」
桂一はノートへ視線を落とす。
「路面温度。空気の温度差。風。水分」
「昨日の暑さは関係ありそうですね」
「たぶんね」
桂一は椅子の背にもたれた。
「明日、もう一回駅前寄ろう」
「また検証ですか?」
「半分はね」
「残り半分は?」
「観光」
「またですか」
「記事にするなら、時計だけ書いて終わりじゃもったいないだろ」
翌日。
二人は朝からK市内を回った。
駅前の商店。
昔から続いている食堂。
地元の商品を扱う店。
昔の駅前を知る人。
時計の話とは関係のないことも、桂一はよく聞いた。
「結局、普通に観光してません?」
「取材」
「便利ですね、その言葉」
「ちゃんと記事にするから取材だよ」
桂一は楽しそうだった。
怪異だけを拾って帰らない。
市役所で話していたことを、そのままやっている。
午後。
帰る前に、二人はもう一度駅前へ寄った。
昨日ほどではないが、今日も暑い。
時計は何事もなく時刻を表示している。
「最後に少し見て帰るか」
「はい」
栞が答えた、そのときだった。
シュッ。
どこかで小さな音がした。
桂一が足を止める。
「ん?」
広場の一角から、細かな霧が噴き出していた。
「ああ」
栞も見る。
「ミストですね」
暑さ対策なのだろう。
歩行者が通る場所へ向けて、白い霧が薄く広がっている。
風に押され。
形を変え。
数秒で消える。
桂一は何も言わなかった。
「桂一さん?」
返事がない。
霧を見ている。
その向こうの舗装面を見る。
そして。
見上げた。
「あ」
「どうしました?」
「昨日の街灯」
栞も見上げる。
昨日、桂一が随分低いと言っていたものだった。
よく見る。
支柱の途中に、小さなノズルが取り付けられている。
「これ、ミストも一緒になってるんですね」
「みたいだね」
桂一はスマートフォンを取り出した。
写真部から送られてきた記録を開く。
「相沢」
「はい」
「昨日、これ動いてた?」
「ミストですか?」
「うん」
栞は記憶をたどった。
「見たような気はします。でも、ずっとではなかったと思います」
「俺もそうなんだよね」
また、シュッと音がする。
霧が出る。
熱を持った路面の上へ、細かな水滴が流れていく。
桂一はしゃがみ込んだ。
地面を見る。
霧を見る。
その先を見る。
「……なるほど」
「何か分かったんですか?」
「いや」
桂一は立ち上がる。
「分からないものが一個増えた」
「増えたんですか」
「でも、増え方はいい」
画面をスクロールする。
写真部の記録。
異常が出た日。
時間帯。
気温。
天候。
「暑い日だけじゃない」
「はい」
「暑い日の中でも出る日と出ない日がある」
「はい」
「だったら、その違いを作ってる何かがある」
桂一がミストを見る。
「これが、その候補かもしれない」
「専門家の先生、水分って言ってましたね」
「うん」
「じゃあ、これが原因?」
「まだ」
桂一は即座に否定した。
「まだ原因とは言えない」
栞は頷く。
その言い方にも、もう慣れていた。
「高瀬さんに聞こう」
「何をです?」
「設置された時期」
桂一が指を折る。
「運転する季節。時間。何度くらいで動くのか。風が強い日は止まるのか」
「結構ありますね」
「あと、毎回同じ動きなのか」
「同じ動き?」
「ずっと霧を出すだけなのか。それとも、途中で勝手に何かするのか」
栞はミストを見る。
「そんなのまで分かります?」
「管理してる人なら知ってるかもしれない」
桂一は高瀬の連絡先を開いた。
電話をかける前に、もう一度だけ広場を見回す。
熱せられた路面。
低い位置を流れる霧。
風。
時計。
写真部が半年間集めた記録。
そして。
昨日、栞の肘と桂一の指が歪んだ高さ。
ばらばらだったものが。
ようやく少しずつ、同じ場所へ集まり始めていた。




