1ー1 佐原の電話
桂一がモニターと向かい合っていると、ふいに携帯が鳴った。
画面には、佐原の名前が出ている。
「はい」
『桂一、夕方空いてるか』
挨拶もなしだった。
こういう電話をしてくるときの佐原は、大抵何かある。
時計を見る。
午後三時を少し回ったところだった。
「空いてますけど」
『山、行けるか』
「今からですか?」
『今からだ』
桂一は窓の外を見た。
九月に入り、日が落ちるのも少しずつ早くなっている。
山に入るなら、のんびりしている時間ではない。
佐原は桂一にとって、狩猟の先輩だった。
狩猟免許を取り、猟友会に入った頃から面倒を見てもらっている。
罠の見方も、獲物の扱いも、山の中で何を見るべきかも、かなり教わった。
だからこそ、妙だった。
桂一は少し考え、一拍置いてから聞いた。
「まだ猟期じゃないですよね。有害ですか?」
九月。
通常の狩猟が始まるには、まだ早い。
有害鳥獣捕獲か、何か別の許可が出ているのだろうか。
佐原は、ほんのわずかに間を置いた。
『イノシシだと言われてる』
「え?」
思わず聞き返した。
答えになっていない。
「いや、イノシシなのは分かりました。誰が捕ったんです?」
『今回の件は俺も雇われだから分からん。ただ、報酬は五万だ』
「そんなに?」
桂一は思わず姿勢を直した。
「運ぶだけで五万、ですか?」
『そうだ』
それは、うまい。
新しい機材も買えそうだった。
情報サイトや副業を始めて、まだそれほど経っていない。
取材に使いたいものはいくらでもあるし、機材は買い始めるときりがない。
とはいえ、イノシシ一頭を運ぶだけで五万円。
明らかに高い。
「怪しいですね」
『怪しむのは分かるが、これは経験になる。着いてこい』
「経験?」
『来れば分かる』
「そういう言い方されると、余計怪しいんですけど」
『嫌ならいいぞ』
そう言われると困る。
嫌ではない。
むしろ、気になる。
猟期前なのは引っかかった。
ただ、佐原が受けた仕事なら、何かしら許可は通っているのだろうと勝手に補った。
「行きます」
『じゃあ四時。いつものところな』
「分かりました」
電話が切れた。
短い通話だった。
桂一はしばらく携帯を見ていた。
イノシシだと――言われている。
その言い方だけが引っかかった。
佐原とは親子ほど歳が離れている。
最初の頃は荷物持ちのようについて回っていたが、今では獲物の運搬を任されることもある。
何度か経験しているからこそ、五万円という金額がおかしいことくらいは分かる。
山の中からイノシシを引っ張り出すのは、楽な仕事ではない。
百キロを超えることだってある。
それでも五万円。
何か別の理由がある。
そう思った。
思ったのに、断ろうとは思わなかった。
今考えれば、この頃からそうだったのだろう。
分からないことがあると、離れるより先に近づいてしまう。
*
約束の場所には、佐原の軽トラックが先に停まっていた。
荷台にはソリとロープ。
他にも、山へ入るための道具がいくつか積んである。
「お疲れさまです」
「おう」
佐原は桂一の格好を上から下まで確認した。
「手袋は?」
「あります」
「長靴」
「積んでます」
「替えの服は?」
「ありますよ」
「ならいい」
「何年一緒に山入ってると思ってるんですか」
「お前は変なところで抜けるからな」
「失礼ですね」
「免許持ってるのにナイフ忘れた奴が何言ってんだ」
「あれ一回だけじゃないですか」
「一回あれば十分だ」
反論できなかった。
桂一は自分の車を置き、佐原の軽トラックに乗り込んだ。
舗装路をしばらく走ったあと、車は山へ向かう細い道に入った。
途中から舗装が荒れ始める。
枝が車体を擦った。
タイヤが小石を弾く音がする。
「で」
助手席から佐原を見る。
「結局、誰からの仕事なんです?」
「知り合いだよ」
「猟友会?」
「違う」
「役所?」
「違う」
「じゃあ誰です?」
「知らん」
「知り合いじゃないじゃないですか」
「俺の知り合いの知り合いだ」
「一番信用できないやつじゃないですか」
「俺もそう思う」
佐原は真顔だった。
「断らなかったんですか?」
「前にも何回か仕事もらってる」
「へえ。猟期前なのに?」
「割はいい」
「答えになってないですよ」
「そういうことだ」
軽トラックが大きく揺れた。
桂一はドアの上の取っ手を掴む。
「何を運ぶんです?」
「だから、イノシシだって聞いてる」
「普通の?」
「そこまでは知らん」
「病気とか?」
「分からん」
「だったら余計に、先に教えてほしいんですけど」
「俺も聞いた。答えなかった」
佐原が前を見たまま言った。
「だから、余計なことはするな」
「余計なことって?」
「言われたもの運んで、渡して、金もらって帰る。それだけだ」
「五万円もらって?」
「そうだ」
「やっぱり怪しいな」
「だから言ってるだろ」
佐原がため息をついた。
「深入りするな」
道はさらに狭くなった。
左右から草が迫り、木の枝がフロントガラスの上を流れていく。
やがて、少しだけ開けた場所に出た。
そこで桂一は、妙なものを見た。
車だ。
一台ではない。
白や銀色のバンが何台か、林道脇の空き地に停まっている。
作業車にも見える。
送迎用の車にも見えた。
ただ―― 人がいない。
山の中に、複数台の車だけが置かれている。
「何ですかね、あれ」
佐原は答えなかった。
ちらりと車の方を見る。
「チッ」
小さく舌打ちした。
珍しかった。
桂一が佐原の横顔を見ている間に、軽トラックはその場所を通り過ぎた。
「知ってる車ですか?」
「気にすんな」
「さっきからそればっかりですね」
「それでいいんだよ」
それ以上、佐原は答えなかった。




