第一章 「猟師の荷運びバイト」
※本作は過去に掲載した『市影譚』を、設定・構成・文章から全面的に再構成した本編版です。
私が『市影譚』と出会ったのは、高校を卒業する少し前だった。
その頃は今よりずっと規模が小さく、地方の変わった噂や、不思議な出来事を個人で集めている、趣味のオカルトサイト――
最初に見たときは、そんな印象だったと思う。
興味を持った理由も、たいしたものではない。
記事の舞台が、私の地元に近かったからだ。
はっきりと地名が書かれているわけではない。それでも、写真に写った山の形や、冬の道路、古い商店、錆びたガードレールを見ると分かる。
これは、私が知っている地方の景色だ。
有名な心霊スポットを巡って、怖い写真や噂を紹介するサイトとは少し違った。
山で聞いたという妙な声の話があるかと思えば、古い道路の話がある。
誰もいないはずの建物で人影を見たという話の隣に、地域で働く人への取材が載っている。
怖いのか、面白いのか、役に立つのか。
果たして、よく分からないサイトだった。
それが妙に気に入って、私はときどき読むようになった。
まさか数年後、そのサイトを作っていた本人の隣で働くことになるとは思っていなかったけれど。
そして、実際に働いてみて分かったことがある。
管理人である水野桂一は、文章から想像していたより、ずっと変な人だった。
好奇心と向上心に手足をつけたら、たぶんこんな人になる。
興味を持てば調べる。
調べて面白ければ、自分でやる。
資格を取ることもあれば、知らない仕事を始めることもある。昨日まで名前しか知らなかったものが、数日後には事務所に置かれていることもある。
何の役に立つのか聞くと、
「分からない」
と答えることさえある。
役に立つから知るのではなく、知りたいから知る。
その結果、後になって妙なところで役に立つ。
そういう人だ。
そんな桂一と働き始めて、三年になる。
市影譚も、私が高校生の頃に見ていたものとは、ずいぶん変わった。
記事は増えた。
読者も増えた。
取材の依頼や情報提供も来る。
一人で始めた小さなサイトは、いつの間にか私が仕事として毎日関わる場所になっていた。
読む側だった私も、今では記事を書く側にいる。
そして今日は、昔の記事を読んでいた。
市影譚では、公開した記事を定期的に確認する。
誤字や脱字。
リンク切れ。
公開した当時には正しかったが、現在では変わってしまった情報。
立入禁止になった場所。撤去された看板。閉鎖された施設。道路状況や自治体の案内。
怪異を扱っているからといって、現実の情報まで曖昧でいいわけではない。
むしろ、その逆だ。
誰かが見たというもの。
誰かから聞いた話。
自分たちで確認したこと。
行政などが公表している事実。
それらは、できるだけ分けて書く。
分からないものは、分からないと書く。
それが市影譚の基本だった。
私は古い記事を一つ開いた。
山間部に残る古い道路について書かれたものだ。
記事内に貼られている自治体へのリンクを開く。
ページが表示されない。
「またか……」
検索し直す。
自治体のホームページは、ときどき大きな更新でページの場所が変わる。
新しいページを探すと、記事を書いた当時には通行できた区間が、現在は法面の崩落で車両通行止めになっていた。
「桂一さん」
「なんだい?」
返事だけが飛んできた。
少し離れた机で、桂一が気だるそうにモニターを眺めている。
二十九歳。
白いシャツに薄い色のパンツ。
椅子の背にもたれ、片手にはマグカップ。
地方の怪異や奇妙な噂を扱うメディアの運営者というより、休日に自宅でネットを見ている人に近い。
「ここの林道、今は車両通行止めになってます」
「理由は?」
「法面の崩落です。復旧時期は未定」
「じゃあ変えといて。昔の記事だって分かるように、追記の日付も入れて」
「分かりました」
本文を修正する。
ついでに、その前後も確認した。
「……誤字」
『確認したところ』が、『確認したとろこ』になっている。
直す。
少し進む。
またあった。
「また誤字」
「昔の俺に言ってくれ」
「今も書いた本人でしょう」
「過去の自分は他人だよ」
「便利ですね、その考え方」
桂一はマグカップを口に運びながら笑った。
またコーヒーだ。
朝から何杯目なのかは知らない。
桂一はコーヒーが好きだ。
基本はブラック。
でも、ブラックでなければ駄目だというこだわりはないらしい。
喉の調子が悪ければミルクを入れるし、疲れていれば砂糖や蜂蜜を入れる。
以前、そのことを聞いたことがある。
「ブラックが好きなんじゃないんですか?」
「好きだよ」
「じゃあ砂糖入れない方が」
「好きなように飲めばいいだろ。コーヒーは嗜好品なんだから」
そのときは、ずいぶん自由なコーヒー好きだと思った。
今になって考えると、桂一は大抵のことに対してそうなのかもしれない。
好きなものは好きに楽しめばいい。
人のやり方まで、自分の基準に合わせる必要はない。
私は記事の確認を続けた。
公開されている文章だけではなく、そのとき使った資料も見る。
写真。
録音。
地図。
取材メモ。
公開しなかった情報。
市影譚が大きくなった今では、それらを整理するのも私の仕事だった。
古いフォルダを順番に開いていく。
山。
港。
団地。
道路。
桂一は整理が得意なのか雑なのか、三年一緒に働いても、いまだによく分からない。
重要な資料には妙に細かい名前を付けるくせに、
その横に『メモ』『メモ2』『あとで見る』というファイルが平然と置かれている。
「あれ?」
その中に、一つだけ妙なファイルがあった。
写真ではない。
音声でもない。
ただのメモファイルに見える。
ファイル名は、
【猟師の荷運びバイト】
手を止めた。
作成日を見る。
約六年前。
市影譚のかなり初期だ。
「こんな記事、あったっけ……」
知らない。
高校生の頃から市影譚を読んでいた私にも、この記事を読んだ記憶がなかった。
念のため、公開されている記事を検索する。
出てこない。
タイトルの一部を変えて検索しても同じだった。
削除された記事かもしれない。
過去の管理データも確認する。
それらしい記録はなかった。
「公開してない……?」
もう一度、作成日を見る。
約六年前。
私が市影譚を読んでいた頃には、すでにこのファイルは存在していたことになる。
同じ名前の資料がないか探した。
ない。
写真もない。
音声もない。
地図もない。
取材先を記したメモもない。
市影譚の記事としては、妙だった。
桂一は昔から、現場でやたらと記録を残す。
写真を撮る。
時間を書く。
聞いた話と、自分で確認したことを分ける。
何かを動かす前に撮る。
後から思い出したことは、後から書いたと分かるように残す。
その桂一が書いたものなのに、このファイルには文章しかない。
「桂一さん」
「どうした?」
「ちょっといいですか?」
「いいよ」
マグカップを持ったまま、桂一が立ち上がった。
私の机まで来て、横からモニターを覗き込む。
「これって、なんで資料が少ないんですか?」
「どれ?」
「これです」
ファイル名を指す。
【猟師の荷運びバイト】
「――ああ、これね」
一瞬だった。
でも、分かった。
しまった。
そんな表情をした。
「記録に残せなかったんだよ」
「残せない?」
「そう」
桂一は画面を見たまま、コーヒーを一口飲んだ。
「これは俺が、怪異の存在を明確に信じるきっかけになった話だね」
私は桂一を見る。
「……桂一さんが、ですか?」
「そう、俺が」
意外だった。
『市影譚』なんて名前のサイトを作っておきながら、桂一は意外なほど、怪異を怪異として扱いたがらない。
変な音がしたと言われれば、まず機械を疑う。
人影を見たと言われれば、照明や反射を確認する。
山で声を聞いたと言われても、それだけで幽霊がいたとは言わない。
分からないものは、分からない。
それが桂一の基本だった。
その本人が、明確に信じるきっかけ、と言った。
「怖い話なんですか?」
「人によると思う」
少し考えてから、桂一は続けた。
「信じるか信じないかは勝手だけど、実際にあった話のメモだから」
「読んでもいいんですか?」
「読んでもいいよ」
あっさりしていた。
桂一は自分の席へ戻ろうとして、途中で足を止めた。
「昔の俺は、忘れたくて書くだけ書いて、記憶から消したかったんだと思う」
「珍しいですね」
「何が?」
「いつもは、とりあえず何でも公開してるのに」
「これは特別でね」
桂一は少しだけ笑った。
「相沢が読んで、もし公開してもいいなって形に整ることが出来たら、俺が再チェックするから見せて」
「分かりました」
「ああ、それと」
「はい?」
桂一が自分のマグカップを傾けた。
空だった。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「今からですか?」
「もうないから」
「さっき飲んでたじゃないですか」
「飲んだからなくなったんだよ」
「そういう意味じゃないです」
桂一は給湯スペースへ向う。
しばらくすると、豆の香りが事務所に広がった。
「相沢」
「はい?」
「砂糖いる?」
「いりません」
「三温糖あるぞ」
「なんで事務所に三温糖があるんですか」
「美味いから」
理由になっているような、なっていないような答えだった。
私は思わず笑った。
やがて、机の横にマグカップが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
桂一は自分の分を持って、何事もなかったように席へ戻っていった。
私はカップを両手で持った。
温かい。
甘い香りがする。
窓の外には、いつもの街がある。
モニターの向こうでは桂一がマウスを動かしている。
いつもの事務所。
いつもの仕事。
その中に、六年間、公開されることなく残っていた文章がある。
私はマグカップを置いた。
もう一度、ファイル名を見る。
【猟師の荷運びバイト】
六年前。
写真はない。
音声もない。
資料もない。
文章だけ。
そして、その文章を書いた本人は、
忘れたかったのだと言った。
私はファイルを開いた。
最初の一行に、目を落とした。




