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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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閑話 エピローグ

 三年後。


「おはようございます」


 事務所の扉を開けた。


「おはよう」


 返事はすぐに来た。


 私は靴を脱ぎながら、事務所の奥を見る。


 そして止まった。


 桂一がヨガをしていた。


 ヨガマットの上で片足を上げ、ゆっくりと両腕を伸ばしている。


「……今度は何をやっているんですか?」


「見て分かるだろ。ヨガだよ」


「それは分かります。その格好です」


「これか?」


 桂一が、自分の身体を見る。


 上下、黄色。 どこかで見たことのあるような、黄色いトラックスーツ。


 胸元から足首まで、見事なくらい黄色い。


 この人は妙にスタイルがいいので、こんな格好でも無駄に様になっている。


「ブルース・リーだよ」


「それも分かります。だから、なんでその格好なんですか?」


「カンフーの達人の気持ちになれば、多少は身体が柔らかくなるかなと思って」


「なりませんよ」


「まだ始めて十分だから分からないだろ」


「十分やったんですか」


「うん」


 真剣だった。


 余計に訳が分からない。


「ヨガとカンフーは別物ですよね」


「身体を使うという点では共通してる」


「だいぶ大きく括りましたね」


 桂一は片足で立ったまま、ゆっくり身体を傾けた。


 会話をしている間も、ヨガはやめないらしい。


「相沢もやるか?」


「私は遠慮しときます」


「ヨガマット、二枚あるぞ」


「なんで二枚買ったんですか?」


「二枚で三十パーセントOFFだったんだよ」


「一枚でよかったでしょう」


「相沢もやるかもしれないだろ」


「やりません」


「そうか」


 残念そうでもない。


 そのまま身体を伸ばしている。


 私は鞄を机へ置いた。


 こういうことも、珍しくなくなった。


 三年前なら、


 何をしているんですか。


 そう本気で聞いていたと思う。


 今は違う。


 また何か始めた。


 まず、そう思う。


 そして少しだけ。


 今度は何をするんだろう、と楽しみにしている自分がいる。


 桂一は、自分の興味を仕事につなげるのが上手い。


 遊んでいるように見える。


 実際、遊んでいることも多い。


 それでも、必要なことはやる。


 取材へ行けば話を聞く。


 写真を撮る。


 資料を集める。


 確認する。


 そして、ちゃんと何かを持ち帰ってくる。


 それが記事になり。


 別の仕事になり。


 次の仕事につながる。


 三年前。


 市影譚は、私が長く読んできた妙なサイトだった。


 今では、あの頃とは比べものにならないくらい、多くの人がその名前を知っている。


 私の仕事も増えた。


 相談を読む。


 事実と推測を分ける。


 取材の準備をする。


 現場へ行く。


 人から話を聞く。


 記録を残す。


 記事を確認する。


 公開しない方がいい、と意見を言う。


 ときには、


「今日はもう帰りましょう」


 と、桂一を止める。


 工業高校で覚えたことも。


 看護学校で覚えたことも。


 病院で経験したことも。


 事務も。


 接客も。


 どこで使うのか分からなかったものが、少しずつ仕事になった。


 そして仕事をしているうちに、できることはまた増えた。


 あの日。


 桂一が言った。


『相沢さんが思ってる以上に、君の過去には価値がある』


 今なら。


 あの言葉の意味が、少しだけ分かる。


「相沢」


「はい?」


 桂一は、まだ片足で立っていた。


「今日、午前中に一本確認してほしい記事ある」


「分かりました」


「それ終わったら出るよ」


「どこにですか?」


「まだ言ってなかった?」


「聞いてません」


「山形」


「……何しに?」


「仕事」


「それは分かってます。そのあとです」


「蕎麦」


「やっぱり」


 桂一がようやく両足を床につけた。


「冷たい肉そばなんだけど、キンキンに冷えてて麺のコシがすごいらしい」


「それは取材?」


「まあ、取材だ。新しい店だし、注目が集まってるからね」


「市影譚の記事?」


「違う。これは別件」


「分かりました」


 どこに載せるのかは分からない。


 三年一緒に働いていても、桂一がやっている仕事のすべてを、私が把握しているわけではなかった。


 新しいことを始めて。


 しばらくしてから、


「そういえば、こんなのやってる」


 と見せてくることもある。


 冷たい肉そばを食べたい。


 普通なら、それだけで終わる。


 この人の場合は違う。


 店を調べる。


 何が注目されているのかを見る。


 実際に行く。


 食べる。


 話を聞く。


 写真を撮る。


 そして気がつけば、何かの仕事になっている。


 今回も、たぶんそうなのだろう。


「ついでに将棋盤でも買って、帰ったら一勝負だ」


「なんで将棋盤なんですか?」


「なんとなくやりたくなった」


「できるんですか?」


「ルールは分かる」


「強いんですか?」


「やってみれば分かるだろ」


「私も強くないですよ」


「ちょうどいいじゃん」


 私はパソコンの電源を入れた。


 午前中に記事を確認して。


 それから山形へ向かって。


 取材をして。


 冷たい肉そばを食べて。


 帰りに将棋盤を買う。


 今日は、そういう一日になるらしい。


「あ、いや、待った」


「今度は何です?」


「よく考えたら、蕎麦なくなったら閉まるよな」


 桂一が時計を見る。


「先に行くぞ。準備しよう」


「記事は?」


「帰ってからでいい」


「午前中に確認って言ったじゃないですか」


「予定変更」


「また予定変わった」


 私はため息をついた。


 立ち上げたばかりのパソコンを閉じる。


 桂一は黄色いつなぎのまま立ち上がった。


「着替えてくる」


「そのまま行ったら他人のふりしますからね」


「しないよ」


 そう言って、奥へ消えた。


 私は取材に必要そうなものを確認する。


 録音機。

 予備のバッテリー。

 ノート。

 筆記具。


 店の名前はまだ聞いていないが、天気くらいは調べておこう。


 帰りが多少遅くなっても問題はなさそうだ。


 こういうことを、何も考えずにやるようになった。


 仕事なのか。

 遊びなのか。


 境目がよく分からない日もある。


 でも。


 やるべきことはやる。


 そのあとなら、楽しんでもいい。


 三年前。


 あの店で説明された働き方は、だいたい本当だった。


「相沢、行くぞ」


 着替えに行ってから、五分も経っていない。


 いつもの白いシャツに、スラックス。


 さっきまで黄色いつなぎでヨガをしていた人間とは思えない。


 本人曰く、服を選ぶ時間がもったいないらしい。


 確かに早い。


「はいはい。今行きます」


 あなたを待っていたんですけど。


 そう言いたい気持ちより、面白さが上回る。


 私は鞄を持った。


 あのメールを送ったことだけは。


 今でも、悪くなかったと思っている。

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