閑話ー5 雇用条件
栞は、もう一枚の紙へ目を移した。
雇用条件。
勤務時間。
休日。
給与。
上から順に読んでいく。
途中で一度、手が止まった。
もう一度、最初から読む。
そして、用紙の上部に書かれている文字を見た。
【Bプラン】
「……これ」
「はい」
「Bプランですよね?」
「そうです」
栞はもう一度、給与欄を見る。
高い。
仕事内容を考えても、自分がこれまで見てきた求人と比べても、かなり高い。
休日も多い。
勤務時間も、一般的な会社員より柔軟に設定されている。
しばらく紙を見てから、栞は顔を上げた。
「最初から私に、これを出すつもりだったんですか?」
桂一が少し笑った。
「察しがいいね。いくつか作ってきて、それはBプラン」
「やっぱり他にもあるんですね」
「あるよ」
栞は手元の紙を見る。
Aではなく、B。
普通なら二番目ということになる。
「ちなみに、下から何番目ですか?」
「上から数えた方が早いよ」
「えっと……」
もう一度、給与と休日を見る。
「それって、かなりいい条件ってことですか?」
「駆け出しの頃の俺なら、たぶん飛びつく」
「……そんなに?」
「うん」
本人にあっさり肯定されてしまった。
栞は困った。
条件が悪ければ、警戒する理由は分かりやすい。
けれど、良すぎる条件も、それはそれで怖い。
書かれていない仕事があるのではないか。
最初から危険手当まで含まれているのではないか。
取材に必要な交通費や宿泊費まで、この給与から出すのではないか。
そもそも。
個人で運営しているように見える市影譚に、これだけの給与を継続して払えるほどの利益があるのだろうか。
そして何より。
自分に、この金額を受け取るだけの仕事ができるのか。
「……こんなに頂いていいのかな」
思わず声に出ていた。
桂一が聞き返す。
「それ、どういう意味?」
「え?」
「金額が高いって意味なのか、自分にその分の仕事ができるのかって意味なのか」
「あ……」
栞は紙を見る。
「たぶん、全部です」
「全部?」
「私にこれだけの仕事ができるかも分からないですし、どこまでがこの給料に含まれるのかも分からないですし……」
一度、言葉を切った。
聞いていいものか少し迷う。
けれど、これから雇われるかもしれない相手だ。
「そもそも、市影譚って……そんなに利益が出てるんですか?」
踏み込みすぎたかもしれない。
桂一は嫌な顔をしなかった。
「それなりには」
「それなり……」
「でも、今の利益だけ見て決めた金額じゃないよ」
「どういうことですか?」
桂一は、テーブルの上に置かれた業務一覧へ目を落とした。
「相沢さんに仕事を任せたら、俺が動ける時間が増えるでしょう」
「はい」
「問い合わせを整理する時間。写真や録音を整理する時間。資料を探す時間。原稿をもう一度確認する時間」
一つずつ挙げていく。
「そこを任せられたら、その分、俺は別のことができる」
「別の取材ですか?」
「それもある。記事も増やせるし、ほかの仕事もできる」
「ほかの仕事」
「まあ、それは今度」
また濁された。
桂一は続ける。
「俺は、自分が動ける時間が増えれば、相沢さんに払う給料以上のものは作れると思ってる」
言い切った。
大きなことを言っているはずなのに、自慢しているようには聞こえなかった。
できると思っている。
ただ、それだけの口調だった。
「だから、俺にとっても損じゃない」
「でも、それって水野さんが稼ぐってことですよね」
「最初はね」
「最初は?」
「そのうち、相沢さん自身が給料以上の仕事をするようになると思ってるから」
栞は思わず顔を上げた。
「私が?」
「うん」
「今日、初めて会ったんですよね?」
「そうだね」
「それで、そこまで分かるんですか?」
「全部分かるとは言ってないよ」
桂一は少し考えた。
「ただ、今の時点でも価値はあると思ってる」
「価値……」
「専門家じゃなくても、基礎を知ってる人がいるだけで違うことって結構あるから」
栞は黙って聞いた。
「医療に関係する話なら、俺一人で読むのと、医療用語や基礎的な部分を知ってる人が一度見るのとでは違うでしょう」
「でも、医療の判断まではできません」
「そこはやらなくていい」
桂一はすぐに答えた。
「できないことを、できるように見せる必要はないから」
「……はい」
「設備なら工業高校でやった基礎がある。資料整理なら事務経験がある。人と話すなら接客経験も無駄にならない」
そこで一度言葉を切る。
「今すぐ全部使える必要はないよ」
栞は顔を上げた。
「相沢さん、知らないことがあったら調べるでしょう」
「まあ……気になったら」
「新しいことも覚える?」
「必要なら」
「なら、今できることだけ見て給料を決めなくてもいい」
栞は答えられなかった。
「半年後とか、一年後とか。今よりできることが増えてるなら、その分も含めて考えればいいでしょう」
「それって……」
「将来性ってやつかな」
桂一は軽く言った。
けれど、栞には軽く聞こえなかった。
これまで。
職歴が増えるほど、説明しなければならないことも増えた。
なぜ辞めたのか。
なぜ続かなかったのか。
なぜ違う仕事を選んだのか。
履歴書の行が増えるほど、自分の評価は下がっていくような気がしていた。
けれど。
目の前の男は、その同じ履歴書を見て、まったく逆のことを言っている。
桂一が言った。
「相沢さんが思ってる以上に、君の過去には価値がある」
胸の奥を、不意に掴まれたような気がした。
栞は何か言おうとした。
けれど。
すぐには言葉が出てこなかった。
「あ」
桂一が自分のカップを持ち上げた。
空だった。
「コーヒー、おかわりする?」
「…………」
「相沢さん?」
「今ですか?」
「え?」
「今、それ聞きます?」
桂一は少し考えた。
「……駄目だった?」
栞は堪えきれずに笑った。
全部ぶち壊しだった。
でも。
そのくらいで、ちょうどよかった。




