第一幕『雨が止むまでこの恋を』第九場
「…えーと。君は誰かな? この子は今ボクとデート中で…」
「デートは中止だ。ボクはもう帰るよ。連れてって、セデュ!」
がたんと立ち上がったボクはセデュの腕に絡みついてマルセルから距離を取る。なるべく親密な様子を見せれば、…セデュの迫力ある美貌を目にすれば、たいていの男の人が怯むのは経験済だ。マルセルもそうだといい。それでもう二度と、ボクに求婚するなんて馬鹿な真似は辞めてくれれば――
「待ってくれよ、次はいつ会える?」
思いのほかガッツのあるマルセルはそう言って立ち上がり、店を出ようとするボクの腕を掴む。セデュに絡みついていない方の、無防備な腕だ。慌てた拍子に力加減を間違えたのか、ぴりっとした痛みが走ってボクは思わず呻いていた。
「痛、…っ」
さっと顔色を変えたセデュの手がマルセルの腕に伸び、ぎりぎりと力を籠めてそいつをボクから捥ぎ離す。腕を捩じられる格好になったマルセルはじたばたと暴れて、やっとセデュから解放された。
「ああ、ごめんよ。君を傷つけるつもりじゃなかったんだ。…ところでコイツは何?」
眉間に皺を寄せマルセルを睨みつけたまま自己紹介もしないセデュに呆れたような視線をやり、マルセルがボクに尋ねる。
「彼はセデュ。ボクのパパ」
「誰がパパだ…」
「てのは冗談で、ボクのボディガード兼、ファン第一号。今夜のオペラ座で指揮棒を振るマエストロについて指揮の勉強中の見習い君だ。セデュ、こっちはマルセル。この間電話で話した人」
「へえぇ、ファンねえ…」
「……」
ボクを守るみたいにマルセルとの間に割り込むセデュに、マルセルの面白がるような視線が注がれる。一方のセデュは相変わらずの仏頂面で、まともに挨拶する気もなさそうで、仕方なくボクがふたりを引き合わせる。
「じゃあ次はオペラ座に、そのマエストロとやらの指揮を観に行こうか。公演はいつまで?」
「来月半ばまでだ」
「演目は?」
「…ジスモンダ」
「知らないな。有名な作品?」
「求婚者から逃げ続ける女の人の話だよ!」
長身の男二人に挟まれたボクが背伸びしながら言うと、マルセルはふっと笑ってボクに視線を合わせる。
「へえ。悲劇?」
「…最終的にはハッピー・エンドだ。ヒロインのジスモンダは求婚者の愛を受け入れ結婚する…」
「いいね。僕好みの筋だ。じゃあまた連絡するよ。そのときは、ボディガードなしで会いたいな」
吐き捨てるように言うセデュとは正反対に、マルセルは明るくウインクするとレシートを取り上げ、ボクに拒否する暇も与えずにカウンターへと去っていく。自信満々って感じだ。ボクに振られることなんて万に一つもないって確信してる人みたいな。…
「楽しかったか。デートは」
マルセルが去ってしまってから苦々し気にセデュが言う。ボクは唇を尖らせて15センチは上にある黄金色の瞳を睨んだ。
「イジワル言うなよ。外堀埋められて、逃げられなかったんだってば」
「…珍しいな、お前が喜び勇んで男を弄ばないのは」
「人をクズみたいに言うなよ! まあボクはクズだけど!」
「あいつは特別か」
「そんなんじゃないって。本気でボクと結婚したいとか、バカなことを言ってるヤツだぜ。頭湧いてるだろ? ボクをないがしろにして、両親にさっさと話つけちゃってさあ…」
「……」
セデュが何か言いかけて、その容のいい唇を開いて、心変わりしたようにまた口を閉じる。
「…ボクが成人するまで待つとか言うの。…バカだよなあ、ホント…」
「条件は出さなかったのか」
「え?」
「あいつには…」
「……」
条件、条件か。そういえばそんなこと、思いつきもしなかったな。
ボクがそう呟くと、セデュの顔があからさまに歪む。なんだか泣くのを我慢しているみたいな揺れる瞳で唇を噛んで、振り切るように踵を返した。
「家まで送る。…チケットは手配するよ。二枚分」
「え。あ、ありがとう…?」
「どういたしまして」
セデュは仮面をつけたみたいな無表情になって淡々とそう言って、ボクの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
セデュがチケットを届けてくれたのはその日の夜だ。白シャツに黒ジャケットのシンプルな装いで家を訪ねたセデュは門の前でそれを差し出した。
「わーありがとう。しかもS席じゃあないか! 君もやるねえ」
「招待席だからな。楽団員もお前が来ると聞いて楽しみにしていた」
「そうなんだ! じゃあ観に行ったら楽屋にご挨拶に行くね! 今後ボクと協演することになる人もいるかもしれないしー」
「…そうだな」
門前のオレンジの灯りに、眩しそうにぱちぱち瞬くセデュの顔がぼんやり浮かび上がる。どこか途方に暮れたような、疲れ果てたような様子だ。今日は初日らしいので、よっぽど準備とか大変だったんだろう。
「…今、上演中じゃないの。ここにいていいの?」
「急用があると言って抜け出しただけだから、すぐに戻る」
「忙しそうだねえ、あいかわらず…」
「おかげさまで」
「…ボク、オペラは久々だな。コンサートはよく聴きに行くけど」
「そうか」
「うん。君の先生の指揮も楽しみ…」
「…ん」
「どんな人なの? 主演の女優さん」
「ミラノ出身のオペラ歌手だよ。今作がデビューの新人だが、声量に張りがあって落ち着いている」
「ふーん。美人?」
「…さあな」
「なんだそれ」
話をはぐらかすセデュにむっとしてつんつんヤツのわき腹を肘で突いてやる。「やめろ」と力の籠らない声で言われてもやめない。この勢いでわき腹を擽ってやろうかな。案外くすぐったがりのセデュが、飛び跳ねるみたいにして身体を避けるのが面白いから。
「髪の色は? 目の色は? 体つきは? 君のタイプなの? ねえねえ」
「亜麻色の髪に青い目だ。身体は、オペラ歌手らしい…こら、やめなさい、纏いつくな」
「アハハ、きちんと答えない君が悪いんだぞう!」
いつの間にかセデュにぴったり貼りついていたボクはそのまま笑って顔を上げる。縺れ合っているうちに体の位置が変わってしまって、セデュの顔は闇に沈んでしまって見えない。何を考えているのかもわからない。…いや、だいたいはわかる。音楽馬鹿で仕事熱心なこいつのことだから、早く劇場に戻らないとって、焦ってるんじゃないかな。
絡みついた腕をセデュに捕まれ、捥ぎ離されそうになる。ボクは反発心から伸びあがって、セデュの見えない唇に、ちゅっとキスをした。
びくりとセデュの身体が固まる。合わせた唇は思いの外やわらかい。ふわふわで、いい匂いがして、こいつの大好きなケーキみたいな、甘い味がする、気がする。
背伸びがきつくなるくらいの時間そうしていて、ボクはやっと離れる。
石になったみたいにセデュは動かない。思考停止してフリーズしてる感じだ。失礼なヤツだな、せっかくボクから君にキスしてあげたっていうのに。
「今のはボクのお礼の気持ちだよ、チケット代はマルセルに請求してね!」
「…っ、おまえはまた、そういう…」
「えー、嬉しくなかった? おっぱい揉ませてあげたほうが良かったかな? あんまり大きくないけど、ちょっとは膨らんできたからさあ…君は見たことあるから知ってるよね?」
「………思い出させるな………」
セデュが掌で顔を覆って天を仰ぐ。揶揄いすぎたのかもだ。ボクの保護者君があんまり慌てるものだから、ついつい面白くなっちゃって、調子にのりすぎた。反省はしないけどね!
「やっぱり君といると楽しいな! 気詰まりなことも、嫌な気持ちになることもないし、すっごく楽だ! 昼間とは大違いだ!」
「……」
へらへら笑って褒めてあげたのにセデュはたいして嬉しくもなさそうに視線を逸らす。やっと街灯に横顔の輪郭が浮かび上がり、苦虫を噛みつぶしたような彼の表情がちらりと視界に入る。
「おれは苦しいよ、お前といると」
「え?」
「もう戻る。当日は、お前のボディガードはできないから、そのつもりで」
「あ、うん。わかった」
セデュはくるりと踵を返して足早に去っていく。残された僕は掌に残されたチケットに目を落とした。公演日は次の金曜だ。案外あっという間だ。セデュの言ったことは気になるけど、考えてもよくわからないことは、聞き流しておけばいいだろう。
何を着て行こうかなアなんて、ボクはもうわくわくと久々のオペラに思いを馳せていた。




