第一幕『雨が止むまでこの恋を』第八場
家でゴロゴロして、たまに起き出して作曲して、ってしているうちに週末になった。基本的に怠惰なボクはコンサートとか、明確な仕事が入っていないと食っちゃ寝深酒二日酔時々作曲と、どこまでも自堕落な生活をしてしまうので、定期的にマチウに仕事を入れてもらっているのだけど、今回は長めの公演が終わった後なので週末までほんとに何もなかったのだ。
そんなわけで週末にやっと自堕落生活を切り上げたボクは液状になっていたベッドから立ち上がり、クローゼットを開く。
着道楽のボクのクローゼットはドレスやブラウスやワンピースでいっぱいだ。たいていは脱ぎ捨ててその辺に放っておくのだけど、母さんや姉さんが洗濯してきちんと畳んでアイロンも掛けてしまっておいてくれるので、いつどこに着て行ってもいいようにすべての服はぴかぴかだ。
今日は何を着て行こう。マルセルと会う日だから、あまり畏まった格好もヘンだしなあ。手に取った菫色のシンプルなワンピースを身体に合わせてみる。まあこいつでいいか。チークや口紅も菫色で統一してー、バッグと靴は白でいいかな。
ファッションの為だけの、ろくにものの入らない小さなバッグを肩に掛け、ピンヒールを履いて鏡の前でくるりと回る。うん、良い感じだ。長い前髪の間から鏡の自分に笑いかけ、癖のないブロンドは姉さんを呼んで編み込んでもらう。
最後に黒のカーディガンを肩に羽織ってボクは颯爽と家を出た。お洒落するのは好きだ。ボクはいちおう事務所に所属してる芸能人だから、イメージってのも大事にしなきゃだしね。ボクのお洒落は誰かに向けたモノじゃない。ボク自身の自己満足のためだ。だから決して、マルセルのために気合入れてお洒落したとか、そんなことはないのだ。いやマジで。こればかりは、断言しておきたい。誤解されるのは耐え難いからね!
シャンゼリゼまでメトロで10数分、ツカツカ背筋を伸ばして目的の場所に向かうボクに行きかう男の人が微笑みを投げかける。時には女の人も。ボクは愛想よくそれらに応えながらあっという間にフーケに着いた。
赤い庇の下には、ピンクのシャツに白スーツのコーデに身を包んだマルセルがいて、ボクに手を挙げ合図する。
「やあ、歩いてきたのかい? その服、可愛いね。よく似合ってる」
「どうもアリガトウ。メトロで来たんだ」
「利用しにくくない? 声かけられたりするでしょう、君は有名人だから」
「ボクはたしかに有名人だけど、堂々としてると案外声かけられないもんだよ。だからヘーキ」
店内の時計は3時半を差している。家を出たのが3時過ぎだったから、まあそうだろうなって感じだ。正直、マルセルが諦めて帰ってくれることを内心期待していたところもあるんだけど…どうやらこいつは、案外根性があるらしい。
「何か頼もうか。何にする?」
「んー、ティラミスにしようかな」
「了解。僕はクロックムッシュにするよ。昼飯を食いっぱぐれてさ」
「先に食べてて良かったのに」
「そういう訳にはいかないさ。君が来ないんじゃないかって思ったら、食欲も失せちゃって…」
世間話の合間にさりげなく口説き文句を混ぜてくる。うーん、生粋のフランス男って感じだな。ドイツ系の血が混じってるボクからすると、しゃらくせえって印象だけど。
「飲み物は?」
「えーと、じゃあコーヒーで」
「D’accord.」
テラス席に陣取ったマルセルは手を挙げてギャルソンを呼び、注文してから改めてボクに向き直る。
「今日は来てくれてよかった。…今日の君は一段と美しいみたいだ。大輪の白いマグノリアの花って感じだね」
「…ふーん」
「お化粧してるね。僕のためにお洒落してくれたんだ、嬉しいな」
「君のためじゃないよ。女の子のお洒落は男のためじゃあない! 決して! これは主張しておきたいんだけど」
「うんうん、そうだね」
ニコニコ相槌を打たれて鼻白む。こいつ結構曲者みたいだ。こっちが何を言っても、いまいち響いてない感じがする。やりづらいなあ…。
「結婚の話、なんだけど」
「うん」
単刀直入に切り出すと、マルセルが少し身構える気配がある。ボクはまどろっこしいのは嫌いなので、早速本題に入った。
「あんまり性急すぎないかなって思ってさ。あとボク、まだ18だから、未成年だから」
「君が18なのは知ってる。君の気持ちが定まらないなら、成人するまで待つよ。性急すぎるとは僕は思わないな。君は魅力的だから、うかうかしてると他の男に獲られそうだしね。他に質問はある?」
成人するまで待つ、かあ。なんか誰かさんにも昔言われたっけ。…あいつは忘れてるかもしれないけど。
「ボクは君が思ってるような、そんな…カワイイ妖精ちゃんじゃあないよ。今日も朝から二日酔いでさあ。頭が痛いのなんのって」
「え。大丈夫なのかい?」
「まあいつものことだから。それからえーと、熱中すると周りが見えなくなって、寝食も忘れて没頭しちゃって、何も食べないでぶっ倒れるまで作曲したりとか…」
「情熱的なんだね」
「わりと見境なく、誘われたら誰とでもデートするし…あのフィレンツェの夜だって、他の男と食事してたんだぜ、君がボクを探していた頃…」
「君はモテそうだからね、仕方ないよ」
「品性下劣で、下品で、口も頭も悪くて、人を人ともおもわないようなロクデナシだし」
「率直で素直なんだ」
いちいち良いように翻訳されてむず痒くなってくる。どうしよう、ボクこいつ苦手だ。早くセデュが来てくれないかなあ!
ギャルソンがコーヒーふたつとクロックムッシュ、ティラミスを運んできたタイミングで会話は途切れ、ボクはむっつり押し黙ってスプーンを手に取り、大き目のカップの淵まで入れられたチョコレートの層をぐりぐり掻き混ぜる。
フーケでは、以前セデュとお茶したことがある。3回。毎回あいつはホットチョコレートと、このティラミスを頼んで、平気なカオで平らげていたっけ。…チョコレートにチョコレートを合わせるなんてどんだけ甘いの好きなんだよって感じだよな。ボクは見てるだけで砂糖を吐きそうで、ブラックコーヒーの苦味でそれを中和したんだ。
ボクのコンサートの合間の空き時間で、毎公演駆けつけてくれるあいつと、音楽談義なんか交わしながら、このテラス席に座って…
あの居心地のいい時間がひどく恋しい。セデュはボクをもう恋愛対象としては見ていない。だからこそ全身全霊で甘えられる、あの関係性が恋しい。
そう、恋愛とかは、ボクはもういいんだ。そういうのはガラじゃない。好き合って付き合ったり別れたりまた付き合ったり、結婚したりコドモ作ったり孫の顔を父さん母さんに見せてあげたり…そういう、所謂、人間的な幸せは、ボクは要らない。セックスにだけは興味があるけど、それもボクを『そういう意味』で絶対に愛さない人とじゃないと、無理だって思う。
ボクはもうそういうのは、諦めたんだ。15歳で芸能界入りして、プロになった時点で。コンクールに出ることを辞めた時点で。音楽に一生を捧げるんだって、自分勝手でロクデナシのボクには、それくらいしなけりゃ頂点なんて目指せないからって。
「ボクは君を愛せない。それだけは確かだ」
「…どうしてそう思うの」
「ボクはそういう人間だから。根っからのクズなんだ。誰かに恋してめろめろになっちゃったりとか、それで仕事も手に付かなくなったりとか、そんなの、…バカバカしくって」
「それでもいいって僕が言っても?」
「君のこと、可哀想だなって思うよ。それだけ」
「他に好きな人がいるのかな」
「ハア!?」
思わず素っ頓狂な声が出て、ちらりとこちらを見たギャルソンと目が合って、ボクは慌ててカップを傾ける。
何を言い出したんだコイツは。殊勝そうな顔して、何一つ聞いていやがらなかったのか。なんだかムカムカ腹が立ってくる。あんまり人に腹を立てることのないボク(碌に練習して来ない演奏家は別)を怒らせるなんて相当だ。…なんでこんなに腹が立ってるのかは謎だけど。とにかくこいつが鬱陶しくて仕方なくなってきたぞう!
「…いないけど。そんな人」
「そう? じゃあ僕の頑張り次第で、君は僕のものになる可能性はまだあるってことだ」
「どこからその自信が湧いてくるのかわかんないけど、君はあれかな? 人の話はちゃんと聞くようにって、子供の頃父さんに教わらなかったのかな?」
「うちは母子家庭でね。生憎父親はいないんだ」
「そいつはすまなかった。でもマジで人の話は聞いた方がいいぜ…」
「君が恋愛を怖がってるってことかい。誰かを愛することで自分が変わってしまうのが怖いって?」
「そんなこと一言も言ってない…」
「僕にはそう聞こえたけど」
飄々と言い募るマルセルに言い負かされたみたいな雰囲気になって、ボクは唇を噛む。なんなんだろう、なんでボクがこんな惨めな気分にならなくちゃならないんだ。恋愛なんてくそくらえ。ボクはもういいんだ、そんなの要らない、強がりじゃない。怖がってるわけでもない。だってもう、手遅れなんだ。全部全部、過去のことだ。通り過ぎて行ってしまったんだ。急行列車みたいな速さで、ボクの目の前を素通りして、それでもう二度と戻らない。駅のホームで何時間立ち尽くしていたって変わらない。時間は逆戻りなんてしないんだ。――
「――ルー、約束の時間だ。迎えに来た」
ボクはぱっと顔を上げる。テラス席の傍らに、サマーコートを羽織った長身が立っている。手はコートのポケットに突っ込んだまま、不貞腐れたような仏頂面で。




