第一幕『雨が止むまでこの恋を』第七場
イタリア公演を終えたボクはトランクを転がしつつ家に戻った。約ひと月ぶりの我が家だ。病気療養中の父さんと、看病する母さんと、女学校に通っているふたつ年上の姉さんの待つ我が家、ボクがこの細腕一本で養っている、愛すべき我が家だ。
「ただいまア、イタリア公演も大成功だよー、ファンが大挙して押しかけてもうクッタクタ。ボクの部屋のベッドメイキングは終わってる? ちょっと寝たいな、移動中あんまり眠れていなくって…」
ぺらぺらといつもの調子で喋りながら扉を押し開けたボクは、そこではたと立ち止まる。
マグノリアが生けられた花瓶のある玄関ホールの向こうから、父さんの笑い声が聞こえてくる。珍しい。気難しくて厳格な父さんは滅多に声を上げて笑ったりしないのに。ぱたぱたとボクを迎えに出てきた姉さんがボクのトランクを預かる。
「誰か来てるの?」
「ええ、父さんの部屋であなたを待っているわ」
「ボクを?」
姉さんは意味ありげな目配せをして頷くと、そのまま行ってしまう。ボクはベージュのスプリングコートを脱いで玄関先に掛けて、旅先から帰ったばかりの恰好のまま父さんの部屋に向かった。
廊下の一番奥にある父さんの部屋の扉を開けると、病人特有のにおいがぷんと鼻をつく。部屋の中央のベッドに半身を起こした父さんがすぐにボクを振り返る。そして父さんの傍には、どこかで見たことのあるような、ないような…王子様めいた甘い風貌の、若い男がひとり、座っていた。
「父さん、ただいま帰りました。…」
折り目正しく一礼してから、ボクは窓辺に近い椅子に陣取った男に視線を遣る。父さんの部屋のシンプルな白いカーテンと薄鼠色の壁紙の中にあって、男の存在は異彩を放っている。絵本の中から抜け出てきたみたいなブロンドの短髪に、目鼻立ちのくっきりした美貌。生き生きとした青い目はボクを見返して、にっこり微笑む。
「おかえり、ルー。こちらはお前に会いに訪ねて来てくれた――」
「マルセル・ヴィオレです、はじめまして。以後お見知りおきを」
椅子からすらりと立ち上がった若い男――マルセルがツカツカとボクの前まで来て、手を差し伸べる。
握手のつもりで差し出した手は長身のマルセルに捕まえられ、触れるだけのキスを落とされる。気障な仕草も様になっている。背の高さは、セデュと同じくらいだ。
「はじめまして。ボクに会いに来たって? 物好きな人だねえ、一体ボクに何の用?」
「こら、ルー」
眉を顰めた父さんの叱責の傍ら、苦笑したマルセルはボクの手を握ったままで
「思った通りだ」
と呟いた。
「なに?」
「フィレンツェ公演を拝見しました。舞台の上の君はきらきら輝いて美の女神もかくやというほどの美しさでしたね」
「…ハア。そいつはどうも」
「終演後に君にぜひ挨拶したいと思ったのですが、君は捕まらなくって…こうして、屋敷まで押し掛けた無礼をお許しください」
「……」
フィレンツェでの公演というとつい3日前だ。楽屋におしかけてきたナンパ男と街に繰り出してご馳走になって、セデュに送ってもらったあの日。この人も劇場に来ていたのか。見覚えがあるようなないような印象なのも、そのせいかな。
「へえ、それじゃあ君、ボクのファンってこと? 家まで押し掛けるのは関心しないけど、父さんの話し相手になってくれていたのは感謝するよ。ありがとう。じゃあそろそろ帰ってくれたまえ」
「ルー!」
「ハハハ、君は面白い子だね、掴みどころがなくて、妖精みたいで…ますます気に入ったよ」
なんだか上から目線でジャッジされているような感覚に頬が引き攣る。なんなんだろう、コイツ、ファンにしてはちょっとえらそうじゃない?
「申し遅れたね、僕は君のご両親に、正式に君との交際を申し入れ、快諾を頂いたところなんだ。これからよろしく頼むよ、お姫様」
「はあ!?」
唐突な展開に開いた口が塞がらない。父さんはいつもの険しい表情を解いて鷹揚に頷きながら、「ヴィオレ氏は映画俳優で」とか「お前を妻にしたいと仰っていて」とか「音楽活動の支援もしてくれるそうだ、結婚後もお前の活動を制限する必要はないと」とか言っている。
…一体いくらチラつかせられたんだろう。ボク自身の意思を無視した成り行きに冷たい汗が流れる。
ていうか、結婚なんてボクはごめんなんだけど!?
「…あのさあ、勝手に話を進めないでもらえるかな!? ボクは承諾した覚えはないんだけど! 第一、君のことなんてこれっぽちも知らないし!」
「それはこれから、知っていけばいいよ。週末の予定はある?」
「な、ないけど…」
「じゃあデートをしよう。シャンゼリゼのフーケで2時に待ち合わせだ。気軽な格好で来てよ。お茶しながら、ゆっくり僕のことを知ってほしい」
「……」
柔和な雰囲気ながら一歩も引かない強引なマルセルに迫られて押し負けたボクはそうして、彼とデートをするはめになったのだった。
あんまりな展開に、マルセルの帰った後姉さんに泣きついても
「父さんの決めたことなんでしょう。なら諦めなさい」
と無情にも告げられた。
この家の財政を握っているのはボクだけど、主導権は父さんにあるのだ。そのことでこんなにも厄介な事件が起こるなんて、これまでなかったことなのに。
食事の後、部屋に引き取る前にボクは廊下にある電話の受話器を取り上げ、暗記しているダイヤルを回す。
数回のコールの後で聞きなれた声が応える。少し疲れたような、気怠げな声だ。声だけでも色気が凄いなアなんて思いながらボクは口を開く。
「アロー、ボクだよ。いま大丈夫?」
「…ルーか。どうした」
はっとしたようにシャッキリとなったセデュの声が響いて耳がくすぐったい。ボクは身体を竦ませながら言葉を探す。
「えーと。今週末とかって、何か予定あったりする?」
「午後からリハ、夜に本番だ。オペラ座で…」
「…そーなんだ。ん、わかった…」
セデュに頼れないとなると、…どうしよう。マチウに頼んで張ってもらうか? でもタレントのオフの時間の護衛ってマネージャーの仕事なのかな。なんか違う気もする。
「…何かあるのか」
「え?」
「男と会うんだな」
「……」
やっぱりセデュにはお見通しだったみたいで、電話口からハア、と呆れたような溜息が聞こえてくる。
「…べつに無理して来なくてもいーよ。ちょっとフーケでお茶するってだけだし。いやあ、今日家に帰ったらいきなりファンが訪ねて来ててさあ、両親に挨拶とかしてるの。もうビビったのなんのって…」
「…そいつと会うのか」
「そそ。なんでも映画俳優さんなんだって。知ってる? マルセル・ヴィオレって人」
「知らんな」
「うーん。あんまり有名な人じゃないのかな? ボクも映画のことは詳しくないから知らなくって。そうしたら『これから知っていけばいいよ…』とか言っちゃってさア。笑えるよなあ! まあボクの本性を知ったら奴も尻尾を巻いて逃げ出すだろーけど!」
「……」
「ま、そういうわけだから、君はリハがんばって。えーと、君が遂に指揮することになったの?」
「先生の指揮の、見学だ」
「ああ、そう。まだまだ道はけわしいねえ」
「…見学なので、少しの時間なら抜けられる。何時に行けばいい」
「…え」
セデュの、答えを待つような沈黙が返る。仕事の合間に、ボクのデートの護衛のためだけに、仕事放りだして来ちゃうのか。うーん、ボクがオケのメンバーだったらなんだそれって突っ込むところだな。
とはいえボクはオケのメンバーではないし、コンダクターでもないし、なんなら自分勝手でいい加減なロクデナシなのでセデュに甘えることにする。だってやっぱりセデュがいてくれたら心強いからね! あの訳わからんマルセルの猛攻からも守ってくれそうだしね! セデュも来てくれる気満々らしいし、ここは頼っとくべきだろ!
「2時の約束だから、4時くらいかな? 来れる?」
「わかった。シャンゼリゼのフーケだな」
「うん、そう」
「予定が変わるようならオペラ座まで連絡してくれ」
「うん。…お願いね」
「……」
「……」
また沈黙だ。なーんか気まずい。けど受話器を置くのもどうしてか躊躇われる。沈黙にかこつけて、マルセルにプロポーズされたってこと、話してみようかな? …でも今更か。セデュに愚痴ったって、どうなるものでもないしなア。
「…どんなやつなんだ」
「え? マルセル?」
「うん」
「えーとねえ、絵本に出てくる、王子様みたいな? ブロンドに青い目で、背が高くて、如才ない感じで…」
「……」
「それですっごい気障なの! 初対面でボクの手にキスして、ボクのこと『妖精みたい』とかなんとか言ってさあ!」
「………おまえは、」
「え? なに?」
「……。…なんでもない。また週末に」
「あ、うん。また…」
「旅を終えたばかりで疲れただろう、今日は早く休みなさい」
「うん…」
「おやすみ、良い夢を、ルー」
「おやすみ、セデュ…」
ガチャリと通話は切れる。本当に伝えたいことは他にあったような気がするのに、ツーツーという単調な音を聞いているとそれがなんなのか思い出せなくなる。
名残惜しいような気がして受話器をじっと見つめて、ボクはセデュの少し疲れたような艶っぽい、甘い声を幾度も反芻していた。




