第一幕『雨が止むまでこの恋を』第六場
「がんばったんだけど、手が疲れちゃってさア。まあ明日になったら乾くだろうから、だいじょうぶだって!」
振り向いたセデュは何か考え込むような間があって、それからまた寝室のボクのところに来る。いよいよお小言開始かなアとそわそわ待っていたボクの髪を一房持ち上げて、セデュはベッドに置いたままのドライヤーを持ち上げ、それの電源を入れた。
「まだ髪が濡れている。よく乾かさないと駄目だろう」
「…あ、ウン、…長い髪って面倒でさあ…」
「もっと大事に扱いなさい、お前の指と同じように…これもお前の一部だ」
「指とは比較にならないよ。髪は切ってもまた生えてくるけど、指はそうじゃないだろ」
「おれにとっては同じなんだ、お前を構成するすべてが…」
「すべてが?」
「大事で、…大切だ」
髪を梳き、温風をあてながらセデュが言う。なんだか歌うみたいな調子の、甘い声だ。なんだかいつものボクらと違う雰囲気になりそうで、居心地が悪い。ボクはもぞもぞ尻の位置を直して、首元にかかる熱い風に肩を竦めて、唇を噛む。ようやっとセデュが満足するくらいボクの髪が乾いて、カチリと電源を切る音がした。
「もういい?」
「ああ」
「じゃあ、もう寝る?」
「……は、」
振り返ったセデュはぽかんと口を開けてボクをまじまじ見ている。思いもかけないことを言われたみたいな間抜け面だ。
「一晩寝れば君の服も乾くだろ。今から濡れた服をまた来て、車を飛ばすつもり?」
「当然だ、ここに泊まるわけには、」
「なんで。べつにいいよ、ボクは君が一緒でも。詰めれば二人寝れるって。こんなにデカいベッドだし」
「…おれは、異性愛者だ。そんなことを不用意に言うものじゃない…」
「ひとりでいるの、寂しいんだもん。一緒にいてよ、一晩だけでイイからさ、…ね、セデュ、…だめ?」
首を傾げて上目遣いに見上げると、セデュは黙り込む。はっ、と、息苦しいみたいに呼吸してから、
「ダメだ」
と彼は言った。
「お前は、わかっているのか? そういうことは、…」
「なんでダメなの。ボクがこんなに頼んでるのに…君はボクが大事なんでしょ? ボクが凍えて死んだら嫌だよね? ボクの演奏が聞けなくなったら困るでしょ、君が愛してるのはボクの芸術なんだから――」
「――、」
往生際悪く取りすがるボクを、呆れて振り払おうとしたのか、鬱陶しく纏わりつかれて、飛び退こうとしたのか、セデュが腰を浮かせて、一瞬だけ迷って、それからそのまま、体重をかけて、ボクをどさりと押し倒した。
はっ、はっ、と、興奮した犬みたいなセデュの吐息が落ちる。セデュは興奮しているのかな? ドクドクと早鐘を打つ、心臓の音も聞こえる。ボクのわがままに怒っているんだろうか。いい加減にしろって、叱責されるのかも。このわがまま娘、どうしようもないロクデナシ、誰彼構わずベッドに誘う、このだらしなさはどうだ。これも人生経験だとでも言うつもりか? 付き合わされるこっちの身にもなってみろ。お前の面倒は、金輪際御免だ――とか。言われちゃうかな。ついに。
ボクは、セデュにも、見放されるのかな。
「わかっていない、お前はなにも――こんなにも簡単に、お前は組み敷かれて、振り解けもしないだろう? その細い腕で、何ができると思うんだ?」
吐息の合間に、震えるようなセデュの声が落ちる。怒りというより苦しみを宿したその声が、ボクの手首を掴んだまま離さない、その指が、ボクをベッドに縫い付けて、雁字搦めにする。
セデュはひどく苦しんでいる。ボクを叱るどころじゃない、一杯一杯になって、それで、むき出しの感情を、ボクにぶつけずにはいられないところまで、追い詰められているみたいだ。
「震えているな。怖ろしいのだろう? 男の力が、暴力が、欲望が――」
「こわくないよ」
怖がっているのは君じゃないのか、と思うまま、ボクは口に出していた。そうだ、ボクは怖くない。セデュのことなら知ってる。君がボクに乱暴を働くことなんてできないって知ってる。君はいつも優しくて、甘くて、言葉とか、表情とかとは正反対に、いつもボクに尽くしてくれるんだ。だからボクは怖くない。君になら、何をされても、怖くないんだ。
「なに、されてもいいよ。きみになら、あげる。なんでも、――これまでの、お礼、だから」
くしゃりとセデュが頬を歪めて、困った犬みたいに眉が下がって、泣き出しそうな顔になる。色男がだいなしだ。なんて情けなくて、それで、宝物を奪われた少年みたいに、カワイイ顔、なんだろう。
「わかっていない、おまえはなにも…」
「いいんだよ。泣きたいなら泣けばいい。抱きたいなら抱いてもいいよ。きみの好きにして、きみの自由に――」
堪えきれなくなったみたいにセデュはボクの上から飛び退いて、それで、逃げるようにバスルームに籠ってしまった。
湯を抜いたバスタブにその長身を縮こまらせて、朝まで過ごすつもりなんだろうか。ベッドで寝た方が、絶対身体は楽なはずなのに。…
フラれちゃったな、とボクは思って、ひとりでシーツに包まって、眠れない夜を明かした。
「し、失礼しましたあ!」
朝っぱらから頓狂な声とバタン、と扉の閉まる音にボクは覚醒する。ぱちぱちと瞬いて部屋の時計を確認すると朝の7時だ。カーテンの隙間からは眩しい朝日が差し込んで、床に敷かれた薄紫の絨毯に光の筋が伸びている。
結局あのままウトウトして、数時間は眠れたろうか。ボクはシーツから這い出して伸びをする。寝ている間にタオルは解けて完全に素っ裸だ。きょろきょろ見回したらタオルとバスローブはベッドの下に蹴り落としていた。寝ている間にボクが自分でやったんだろう。寝相の悪さには自信のあるボクである。
起き上がってタオルを拾おうかとシーツを捲ったちょうどその時、書斎との間の扉が開かれシャツ姿のセデュが顔を出す。
「いま、マチウが、…」
「え?」
言いかけてぴたりと静止したセデュを見上げるとみるみるうちにその頬が、チェリーみたいに真っ赤に染まって、…
くるりと踵を返したセデュはまたバタンと書斎の扉を閉める。
「服を着ろ!!」
と扉の向こうでセデュが吠えてる。
はいはい、わかってますよーだ。
クローゼットを開けて下着を身に着けている間に、隣室にはマチウが戻って来たらしい。ごにょごにょ話す小さい声が扉越しに聞こえる。ボクは耳が特別に良いので、内緒話もだいたい聞き取れちゃうのだ。
「…先ほどは、失礼いたしました。ええと、昨夜はこちらにお泊りで?」
「…ああ」
「そうでしたか。いやあ、それはそれは…」
「君はいつも、ルーを起こしに来るのか」
「はい、まあそうですね。マドモワゼル・リーヴェは朝が殊の外弱く…」
「いつもルーはあんな格好で寝ているのか」
「は? あんなとは?」
「裸で…」
「は。まあ、時折は。…いや、わたくしは下着姿しか見たことはございませんがね?」
「下着、姿は、見たのか」
「や、それはまあ…あの、誤解しないでいただきたいのですが、私は既婚者ですのでね? 10代の少女に欲情するほどの特殊性癖は、ございませんのでね? …」
「………」
背中にボタンのついたモスグリーンのワンピースを纏ったボクは隣室に向かう。なにやらセデュに一方的に詰められているらしいマチウを救うためにだ。そのあとは三人で食堂に向かって、朝ごはんを食べてもいいだろう。そのくらいの時間はあるはずだ。セデュだって一晩バスタブで過ごして、身体があちこち痛んでいるだろうし。紳士な彼を、労ってやらないとね。
「お待たせーマチウ、セデュ、ボクもうお腹がペコペコだよお、昨晩激しい運動したからかなあ!?」
ガチャリと扉を開いて満面の笑みのボクに、額突き合わせた男二人から二対の視線が向けられる。
「激しい、運動…」
「誤解を招くような言い方をするな!」
「まあまあ、言葉なんてどうでもいいじゃないか。早くいこ!」
すっかり乾いたものの皺の寄ったシャツを纏ったセデュに腕を回し、ボクは気軽に言ってまた笑った。
ホテル近くの公園に舞い降りたらしい小鳥の囀りが、窓の外から聞こえてくる。…




