第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十場
「迎えに来たよ、お姫様。さあ行こう」
門前でマルセルが騎士様よろしくお辞儀する。気障な仕草に鼻を慣らしながらもボクはヤツに手を引かれるに任せた。同伴者がコイツなのはいまいちだけど、今日は金曜日、待ちに待った観劇の日だ。ミッドナイトブルーのロングドレスを着たボクは同色のハイヒールの踵をコツコツ鳴らしながら車に乗り込んだ。車は一路、オペラ座を目指す。
オペラ座の混雑は相当なものだった。今作デビューの新人オペラ歌手とやらがよっぽど魅力的なのか、実力派なのか、バロック様式の円柱の並ぶ華美なロビーに集った紳士淑女はその子の話題でもちきりだ。これは期待ができそうだ。
マルセルに手を引かれてボクがロビーを進むと、気づいた紳士淑女がボクに目線を合わせて会釈する。そういえばマルセルも芸能人だって言っていたっけ。顔の広いらしい彼に近づいてボクを紹介するよう乞うてくる紳士が何人も現れる。適当にいなしつつ席に落ち着き、第四幕にも上る長編オペラの開幕を待った。
「どうだった、楽しめたかい?」
幕が下りると客席の拍手の終わらないうちからマルセルがボクの顔を覗き込んでくる。休憩のくるごとに溜息吐いて、知人たちとの歓談のほうにこそ興を感じていたらしいマルセルにボクは釈然としないものを感じつつ頷く。
「ジスモンダ役の子がよかったね。堂々としていて、勢いのある良い声だった。高音が特によかったよ、あのコロラトゥーラとか、小鳥の囀りみたいに澄んで、よく響いて、新人とは思えないくらいだった」
泣き黒子のある豊満な身体つきのエトワールに思いを馳せつつボクは述べる。ボクとはまるで正反対のタイプだったな。色気ムンムンって感じ。新人なのに経産婦の役を振られるだけはある。
「楽屋に挨拶に行くけど、君はどうする? もう帰る?」
「どうして。一緒に行くよ。僕も彼にチケットのお礼を言いたいしね」
「ふーん」
ビロードの張られた客席から立ち上がって、深紅とゴールドで装飾された壮麗な劇場をボクは進む。シャンデリアの向こうに花壇の花のようなシャガールの天井画が見下ろす劇場を出て、劇場スタッフに声を掛け、関係者用の出入り口に案内される。
楽屋に通されたボクらを迎えたのは演者(主に演奏家)たちの熱烈な歓迎だった。
数十人と握手して、労いを述べるボクの傍ら、マルセルは彼のファンだと言う演奏家の女の子たちを捌くのに忙しそうだ。どうやらこいつは、それなりに名の知られた俳優らしい。ボクもセデュも知らなかったけど。
そうこうするうちに人並みの向こうにいたセデュの番がやっと回ってきて、ボクらの前に来た彼は形式通りにお辞儀した。
「本日はご観劇どうもありがとうございました」
感情の籠らない淡々とした声でマルセルに言って手を差し出す。マルセルはすぐに応じてセデュの手を握り2、3度シェイクし、
「こちらこそ、貴重なチケットをどうもありがとう。なかなか稀有な体験だったよ」
とか言っている。
「君の先生の指揮も聴けて良かったよ。すごく安定感があって、派手さはないけど堅実な感じだね。君には合ってるとおもう」
とボクが横から口を出すと、セデュの表情が少しだけ緩む。
「そうか」
「君も早く自分の指揮棒が振れるようになるといいねえ。応援してる」
「ありがとう」
「…うん」
「セデュイール、シモンズ先生がお呼びよ。あら、ごめんなさい」
黒いドレスに身を包んだ清楚な感じの女の子がセデュに声を掛けて、ボクらに気付いて謝罪する。楽団員のひとりだ。ヴァイオリンケースを抱えている。
「ああ、今行く。…先生にも挨拶するか?」
「あ、うん、行く! 今日の感想も言いたいし!」
「こっちだ」
「僕はここで待っているよ。帰るとき声を掛けて」
出入口付近でまた別の女の子に囲まれはじめたマルセルに適当に相槌を打ってボクはセデュについて歩きだそうとして、
「セデュイール、明日の準備のことで相談があるの、先生のお話が終わったら、後で」
「ああ、わかった」
楽団員の女の子の声掛けに頷くセデュを間近で見上げる。
――相談って、なんの相談だろう。指揮者見習いでしかないセデュに、一体何の相談があるってんだ? …
「先生、以前話していた、ルーです。ルー、こちらがシモンズ先生だ」
「やあ、よく来てくれたね」
鷹揚に微笑む年嵩の紳士に引き合わせられボクは一瞬前のモヤモヤを忘れて微笑む。
「今日の公演、とても素晴らしかったです。特に第二幕目の――」
先生とボクと、セデュも加えての音楽談義は滔々と途切れることがない。ボクは客席で感じていたワクワク感とか、ドキドキしたこととか、ありったけ先生に伝えて、いつかの協演を約してその場を離れた。いつの間にか楽団員はだいぶ少なくなっていて、出入り口付近でマルセルは腕を組んでひとりボクを待っていた。
「やあ、お待たせ。…かなり時間経っちゃったね。先に帰っていてくれてよかったのに」
「つれないことを言わないで。送るよ、今日は彼も忙しそうだしね」
マルセルが顎で楽団員の女の子に話しかけられているセデュを指す。こちらをチラとも見ないその横顔になんだかむっとして、ボクはツカツカと楽屋を出た。
「公演は来月までだから、彼も暫くは忙しいだろうね。次は君と二人でゆっくり楽しめそうだな」
ボクの後をついて歩きながらマルセルの呑気な声が言う。次ってなんだ? まだデートをするつもりなのかコイツは。性懲りもなく。
「来週の金曜日はどう? 空いてる?」
「君は暇なのかな」
「僕だって仕事してるよ、君に会っていない時間は。余暇は君と過ごしたいってだけさ」
「ふーん…ボクの方はまあ、しばらくは暇だけど。演奏旅行おわったばっかりだから」
「じゃあ金曜日に。車で迎えに行くよ」
「はいはい」
観劇の余韻に浸りたいから、適当にいなしつつ劇場前に屯していたタクシーに乗り込む。マルセルの饒舌もセデュのこっちを無視するような態度も気に食わないから、敢えて頭から追い出して、ボクは劇の素晴らしかったところとか、感動したところとかを反芻する。シモンズ先生の指揮とか、演奏とか、劇場に響き渡る哀切な旋律とか、そういうものを。
タクシーは瞬きの間にボクの家まで着いたようだった。




