第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十一場
金曜日、午後3時。ボクはフーケの奥の席に掛けてホットチョコレートを飲んでいる。
珍しくマルセルは待ち合わせに遅れている。もう放り出して帰っちまおうかな、と思いながらボクはカップを傾ける。今日もいい天気だ。午後の日差しが柔らかにテーブルや椅子を熱して、木々の緑も鮮やかだ。さわさわと風が通る度に木漏れ日が魚の鱗のようにきらめいて、石畳に反射する。
散歩でもしたいような陽光だ、ちょっと足を伸ばして、テュイルリー公園にでも行こうかな。…
ぼんやりしていたボクは、テラス席に寄り添って現れた男女に何の気なしに目を留めて、――思わずぐるりと視線を逸らす。
それから頭に被っていたベレー帽を脱いで顔を隠し、ゆっくりと視線を戻した。
そこにはセデュがいた。あの、楽団員の女の子と一緒に。
…いや、セデュだって四六時中仕事してるわけはないんだから、女の子とデートぐらいするよな。そりゃそうだ。公演中とはいっても、まだ上演時間まで間もあるし。
テラス席に掛けた二人は何やら親し気に談笑している。セデュの、朗らかな笑顔がガラス越しに見える。
お前といると苦しい、ってセデュの声が蘇る。
そういえばセデュの笑顔なんてもうしばらく見ていない。最後に見たのは――多分、ボクが彼のプロポーズを、快諾したあの瞬間だ。ボクの出した無理難題に、すぐにひっこめられちゃったけど。
ボクはまた視線を逸らして、カップの中の、ココナッツブラウンの液体を見る。セデュはまたこいつを頼んだろうか。激甘のティラミスと一緒に。ボクと来た時とおんなじ風に。それとも彼女の前だとかっこつけて、コーヒーとか頼んじゃったりして? …
セデュはもうボクといて笑うことはない。ボクといても楽しくないからだ。ボクは楽しいけど、あいつはそうじゃないからだ。ボクに振り回されて、いい加減うんざりしてるんだろう。ならとっとと離れればいいのに、そうしないのは、まず間違いなく、あいつがボクの才能を愛しているからで。ボクの生み出す音を、音楽を、愛しているからで。
セデュはボクにもう恋愛感情は抱いていない。何度も試してみたからわかる。あいつはボクを抱かないし、抱きしめはしても、それ以上のことは求めていないんだ。まあそれも当然か。誰よりも近くでボクの素行不良をさんざん見せつけられて、ボクのいい加減さも身勝手さも充分味わって、それでもなおボクに恋心を抱き続けるほど、あいつもバカじゃないってことだろう。
セデュに向かい合って座った女の子は、綺麗なブロンドに大きな瞳の、小柄な子だった。小動物みたいに愛らしくって、セデュを見つめる目は憧れに潤んで、頬は興奮したみたいに上ずったピンク色で。恋をしているのが一目でわかる、ころころとよく笑う、そんな女の子だ。…ボクとの共通点は、ブロンドってところだけだ。あとおっぱいが小さいところ? …どーゆー趣味だよって思うけど。あいつやっぱり、小児性愛の気があるのかな。だから成長したボクには興味がなくなったとか? すくすく身長が伸びて、ボクは女にしてはデカい方だしな。痩せぎすで、肉付きが薄くって、腹なんて湶が浮いてて、ふくふく柔らそうな彼女とはまるで違うもんな。…
ぼんやりしているうちに二人はいつの間にか消えていて、代わりに息せき切ったマルセルが店内に駆け込んできた。
「ごめんよ、打ち合わせが長引いて――どうしたの、」
「え? なにが」
「見たこともないような顔してる」
「それってどんな」
「すごく寂しそうな顔だよ。…嬉しいな、そんなに僕が恋しかった?」
「………」
ボクは無言で立ち上がる。レシートをマルセルに押し付けて、決然と告げる、
「今日はどこに連れてってくれるの。どこでもいいよ。君の好きなところで」
「そうなの? ほんとに? いや、君がそんなに積極的になるなんて…予想外で、うれしすぎるな。じゃあドライブしようか、それから、家でゆっくりしようよ」
ウキウキと足取り軽くカウンターに向かうマルセルを見送って、ボクはまたテラス席に視線を向ける。
恋人たちのいなくなったそこはひどく物侘しく殺風景に、ボクの目には見えた。
ぼんやりして、隣から話しかけられる言葉もよく頭に入らなくて、ボクは「ふーん」「へえ」「そうなんだ」の三語だけで対応していたのだけど、いい加減痺れを切らしたマルセルが車を停める。
「ここが僕の家だよ。上がっていくでしょう? 酒もあるよ、僕は一人暮らしだから、邪魔者もいない…」
「……」
シートベルトを外し、バタンと外に出た彼が助手席のドアを開けて促す。ボクは彼に手を引かれるまま閑静な住宅街にあるアパルトマンに入っていった。
ボクに性行為の経験はない。まだいちども。興味はあるけど、体臭がきつい相手は嫌だし、腹の出てる男は嫌だし、年下は嫌だし、声に色気がない男は萎えるし、あからさまなおべっかで媚びを売る男も嫌だし、ボクの音楽じゃなくて容姿ばっかり褒めちぎるような輩も嫌だしで、これまで機会がなかったんだ。
条件をクリアした相手を誘ったことはあるけど、あっさり振られちゃったしね。
そんなわけで、マルセルがボクの初体験の相手になる。家に招くって、そういうことだろう。ボクはちゃんとわかってる。理解してる。男はみんなオオカミなのだ、ただ一人を除いては。
「何飲む? ワインとか? シャンパンもあるよ」
マルセルはキッチンから白々しく問いかける。僕はきちんと整頓された応接間のソファに腰かけ、目の前のガラステーブルを睨みつけながら
「スピリタスとか、ない?」
と聞いていた。




