第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十二場
「ウオッカかい? 随分強い酒が好きなんだ。酒豪だねえ」
「あるかないかって聞いてるんだけど」
「うーん。ここにはないな。買ってこようか?」
「じゃあそうして」
「了解。ちょっと待っていてね、お姫様」
ジャケットを羽織ったマルセルが軽快な足取りで出ていく。この隙にボクが逃げ出す可能性もあるわけだけど、それは考えていないのか、それとも、敢えてそういう猶予を与えてくれるのかもしれない。
でもボクは逃げない。マルセルを逃したら、もうボクはセックスの経験もないまま一生を終えそうだからだ。それは嫌なのだ。ボクだってひとなみの快楽はいちおう知っておきたい。マルセルの野郎はボクの条件には完全に合致しないけど、まあ顔もいいし背も高いし声も悪くないし、年上だし、妥協してもいいかなってくらいの相手ではあるから。
…べつにやけくそになってるわけじゃない。どうでもいいって思ってるわけでもない。
もしマルセルがボクの恋人になりたいって言うなら、なってやってもいいかもしれない。ボクはあいつを愛せないままだろうけど。一生、恋愛なんて、できないだろうけど。…
どれくらいの時間が経ったのか、マルセルはスピリタスの瓶を二本抱えて帰宅する。よく冷えたそれの封を切ってボクはぐいと生のままのそれを呷った。濃度のあるそれが喉を焼き、ぐわんと殴られたみたいに、頭がクラクラする。
…どうでもいいっておもってるわけじゃない、ボクはちゃんと考えてる。ボクはちゃんと知ってるんだ。欲しいものは二度と手に入らない。ボクが自分でダメにしちゃったから。忘れろ、あきらめろ、いい加減、縋りつくのはよせ。何度もためして、ためして、ためして、それでもダメだったんだ、あいつはボクを抱かないし、キスもしないし、ボクの前で笑ってくれることもないんだ。
…あいつって誰だっけ。ボクは何を考えてたんだっけ?
「ペースが早いよ、それじゃあ酔い潰れちまう。…」
隣に掛けたマルセルがボクの手から瓶を奪う。ボクは呻いて手を伸ばして、
近づいた彼の唇に、そのままキスされて、それで、ソファに押し倒された。
ボクの上に載ったマルセルが、首元に何度もキスしている。ちゅっ、ちゅっ、って、啄むような音が聞こえる。ボクはぼんやり天井を見ながら、なるほどこれがセックスかあ、って感心していた。マルセルはボクの、白い襟の大きなブラウスに掛かった紺のリボンを解いて、ボタンをひとつずつ外していく。背中に回された腕がファスナーを下ろし、紺のチェック地のジャンパースカートを引き摺り落とす。
「キレイだね、息が止まりそうだ…」
「………」
下着越しにボクのおっぱいを揉みこみながら吐息交じりの声が言う。黒レースのブラジャーがボクの掌サイズのおっぱいを覆っている。たいして色気もない、細いだけの身体を、丹念にマルセルは愛撫する。
…なんだかじれったいな、さっさと突っ込んでくれればいいのに。セックスって気持ちいいものなんだろ? 天国にいくみたいな快感なんだろ? 知らんけど。いまのところ、ただくすぐったいだけっていうか、重いだけっていうか、なんか、気持ちいいところまで全然いけそうにないんだけど。
「君って経験豊富なの?」
「え? …気になるかい? …」
手持無沙汰で会話でもしようかと口にしたボクの言葉になぜか嬉しそうにマルセルが応える。
「べつに。気になるっていうか…君が下手だと、後悔しそうだなあって思ってさ」
「手厳しいね。…でも後悔はさせないとおもうよ。今まで君が寝た男と比べてもらっても…」
「それはフェアじゃないな」
「そう? どうして?」
「比較対象がないから、判断に困る」
ぴたりとマルセルが手を止めて、ボクをまじまじと見下ろす。
「…初めてなの? 君」
「そうだよ」
「へえ、そうか、それはそれは…」
むくりと身を起こしたマルセルが、髪をかき上げて視線を逸らす。なんだこの反応は。ボクが処女だからってバカにしてんのか? おい。
「なに。やる気なくなった?」
「えっと、待ってくれ、そうじゃなくて、ちょっと混乱してるっていうか。いや、嬉しいよ。すごく嬉しいんだけども。…待って、その…」
なんかもごもご言い訳してる。ボクはイライラしながらマルセルを睨み上げる。
「すんのかしないのか、どっちだよ。早く決めろよ。それで、とっとと終わりにしてくれよ。もうウンザリだよ。愛だの恋だの、好きだの綺麗だの、そんなのどうだっていいんだよ。そんなの要らないんだよ。しゃらくせえ。『相談があるの♡』『なんだいハニー♡』『私とあなたとの将来のこと♡』『そんなのもう決まってるだろ♡』はっ、バカバカしいったらないね。そうやって乳繰り合ってればいいさ。ボクは抱かないのに、あの子は抱けるって言うんだろ。可愛らしくて、小さくて、守ってあげたいとか言うんだろ。ボクみたいなあばずれはゴメンだって言うんだろ。ボクは一度も経験がないのに、君にならくれてやってもいいって思ってたのに、君はもう要らないって言うんだ。君はなんにもわかってない、わかってないのは君のほうだ!」
「どうしたの、誰の話をしてるんだい、…」
「知らないよ! ここにいはいないヤツの話だよ! くそまじめでカタブツで、ボクを一生抱かない男の話だよ!」
ボクは喚きながらテーブルに手を伸ばして、スピリタスをまた呷る。火の玉を飲み込んだみたいだ。お腹の中が燃えている。
「君は君を振り回したりしない、貞淑な女の子と、結婚して、コドモ作って、それで、それで休日に、ボクのコンサートに来たりしてさ、楽屋に来て、昔はお前にプロポーズしたこともあったよなあとかって、笑いながら話すんだ。バカだったよなあって、今じゃ考えられないとか言って。そうやって勝手に、ボクを過去にするんだ。チクショウ、バカ野郎、くそくらえ、この唐変木! 砂糖の海に溺れて死んじまえ!」
口端から酒を零しながら管を巻くボクの肩にブラウスを着せ掛けて、マルセルがソファに座りなおす。叫び続けていたら喉が嗄れてきた。ボクに声楽の才能はなく、肺活量もなく、疲労がただ蓄積するだけだ。
…なんでボクはこんなに叫んでるんだろう。もう酔ったのかな。せっかく千載一遇のチャンスだったのに。もう少しでセックスってヤツができそうだったのに。マルセルはなんだか興が醒めたみたいになってぼんやりボクを見てる。仕切り直して再開するのは、なんか、むずかしそうだ。
そうして暫く叫び続けて、喚き続けて、じたばた暴れて、もんどりうって、それから。
「気が済んだかい?」
とマルセルが、息を切らせて顔を覆ったボクに尋ねる。
ボクはこくりと頷いて、そうして、マルセルに助け起こされてブラウスのボタンを留められ、脱ぎ捨てたジャンパースカートを拾い上げてそいつに肩を通し背中のファスナーを留める。
白々しい沈黙の時間があってから、
「送るよ」
とマルセルは呟いた。
なんだか脱力したような、感情の籠らない声だった。




