第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十三場
楽屋で、楽団員たちが隅に固まり、囁き交わし笑いあっている。シモンズ先生からの伝言のために楽屋に入って来たセデュイールがその中心にいるトランペット奏者に声を掛ければ、筋骨逞しい彼は笑ってぐいと彼の肩を組み、輪の中に引き込む。にやにやしただらしない笑顔を浮かべた男たちに挟まれたセデュイールの、不服そうな声が聞こえる。
「そんなものを見ているひまがあったら練習しろ。なんなんだ一体…」
「まあ、そう言うなよ。相変わらずお堅いねえ、セデュイールは」
音大時代からの、私とセデュイールの友人でもあるトランペット奏者はそう言って、セデュイールになにかを押し付ける。少し離れて様子を見ている私には、それが何かはわからない。
「これってこの間来てた子だろ。恋人同士だったんだ。まだ若いよな。いくつだっけ?」
「18だろ、たしか」
「へー。まだ子供じゃねえか。おマセさんだねえ」
「芸能人なんてそんなもんだろ。こーゆー清楚そうな子が、案外ビッチだったりするんだって、…」
野太い笑い声が反響する中で、セデュイールは手元にじっと視線を落として、
――それからびりびりと紙を引き裂く音が響いた。
「こんなくだらない話題にかこつけて、練習をサボるな。トランペット、アンブシュアが保てていなかった。ホルン、第一楽章22小節目でアクセントが潰れていた。パーカッション、シンバルの音が籠っている。明らかに練習不足だぞ」
吐き捨てるように叱責され、呆気にとられたような男たちは気まずそうに目を逸らしながら散っていく。そのままセデュイールは手元のそれを、鬱陶しそうに屑箱に放り入れた。
男たちが練習に向かい、セデュイールもシモンズ先生のもとに去ってしまってから、私は屑箱の中を見る。放り入れられているのは、煽情的な写真が表紙の、タブロイド紙だ。紙面から破り取られ、くしゃくしゃに丸められたページを開くと、そこには見覚えのある顔が写っている。
以前楽屋にも訪ねてきたカップルだ。長身の、王子様みたいな甘い容姿の映画俳優、マルセル・ヴォオレと、よくお似合いだった可憐な美少女。世界的に有名なピアニストで作曲家の、ルーだ。
マルセルの自宅だというアパルトマンから寄り添いあって出てくる二人を捉えた写真の隣には、『熱愛』『真昼の情事』『逢引を重ねる二人』といった文字が躍っている。
セデュイールはこれを見たのだ。そして、ページを破って、ぐしゃぐしゃに丸めて、放り棄てた。
楽屋で気安くセデュイールに話しかけてきたルーの姿を思い出して、私は得心する。
そして傷心であろう彼を慰めるために、私は楽屋を出て彼を追った。
セデュイール・レヴォネは美しい男だ。音楽学校で初めて会ったときも、その凛とした美貌は周囲から浮くほどで、人目を惹きつけずにおかない魅力を放っていた。
背が高く、足が長く、スマートで、鼻持ちならない優男かもしれないと思いつつ話しかけてみれば彼の内面は誠実で、真摯で、けれど頑固で、誰よりも音楽を愛していた。
学生時代、彼に恋焦がれた女生徒を私は幾人も知っている。私もそのうちのひとりだ。
けれどセデュイールは潔癖というか、生真面目というか、そういうところのあるひとなので、学生時代はおろか卒業してシモンズ先生のもとで師事するようになってからも浮いた噂の一つもなかった。
――セデュイールにアプローチして、あっさりと断られる女生徒が、10人を超えるころだったと思う。当時の彼は、揶揄や、幾分かの嫉妬を籠めて、『女神に恋した男』と呼ばれていた。手の届かない偶像を愛していて、だから下界の人間たちは歯牙にもかけないのだと。
けれど当時の私は、セデュイールは音楽をこそひたすら一途に愛していて、その道の妨げになるものには見向きもしないのだと思っていた。
そうであるなら、私は彼を理解し寄り添うことができる。振り向いてはもらえなくとも、同じ道を志す者同士、共に歩むことができるはずだ。
私はそう信じ、幼い頃から大好きだったヴァイオリンと生涯を共にすることをひそかに誓ったのだ。
セデュイールと私とは気の置けない同級生として、友人として、親しく時を刻んだ。
そしてピアノ科の彼が指揮科に転向し、特別講師であるシモンズ先生の薫陶を受け始めた頃のことだ。
私はあるコンサートのチケットを手に入れて、セデュイールを誘った。
それまでにも数回、こうして出かけたことはあった。著名な音楽家のコンサートで偶然出逢って以来、彼と音楽の趣味が近いことを知った私はコンサートのプレミアムチケットなどを手に入れると必ず彼を誘った。
その日私が手にしていたのも、入手困難と言われるほど人気のあるピアニストのコンサートチケットだった。きっと彼も喜ぶはずだと信じて、私は有頂天だった。
奇しくも、そのコンサートの日に、明確な失恋を経験することになるのだとも知らずに。
天才美少女ピアニストとして15歳にしてプロデビューしたルーの麗しい姿が印刷されたポスターが、劇場のそこらじゅうに貼り出されている。鍵盤に屈みこんできらきらした緑の瞳を見開いて、少し微笑んで演奏に熱中するその姿は、劇場に吊り下げられた旗や劇場外の看板らにも載っていて、パリの街中が、才能あるひとりの少女に恋をして浮かれているかのようだった。
気品があって、だらしない格好を嫌っていそうなセデュイールに釣り合うように、白のロングワンピースに身を包んだ私はそわそわと彼を待つ。
待ち合わせの時間ぴったりに現れた彼はフォーマルなグレーのジャケット姿で、どこか落ち着かない様子だった。
そこで違和感を覚えてもよかったかもしれないのだが、セデュイールとのデートに有頂天の私にはそれは些細な事に思えていた。ごく自然なしぐさで彼にエスコートされて客席に向かい、赤ビロードの張られた座席に落ち着き、間もなく場内が暗くなって、ひときわ明るいスポットライトが点灯する。
背筋を伸ばし、迷いのない足取りでルーはツカツカと壇上に進み出る。濃い紫色のリボンを頭頂で結んだブロンドのポニーテールをひるがえして、リボンの同色のロングドレスに包まれた凛とした長身をピアノの前まで運ぶ。そこで一度客席の方を向いて一礼すると、割れんばかりの拍手が劇場内にこだまする。
ルーはぐるりと客席を見渡しピンク色のルージュの塗られた薄い唇で笑むと、スカートを無造作に捌いて椅子に掛け、指を鍵盤の上に置き、一泊置いて、めくるめくような旋律を、その細い指から紡ぎ出す。
その音は今まで聴いたことがないくらい、鮮烈で、美しく、悲しく、精緻で、天使の奏でる竪琴のように優美で、悪魔の吹き鳴らすラッパのように大胆で――
その素晴らしい演奏に興奮しながら隣のセデュイールをちらと盗み見て、彼の喜びをもともに享受しようとして、
――私は息を飲んだ。
セデュイールは微笑んでいた。舞台の上の彼女を見つめて、今まで見たことがないくらい、その琥珀色の瞳を輝かせて。
頬は紅潮し、慈しむような、憧れるような、称えるような、熱烈な光がその瞳には灯っている。彼の世界には彼女しかおらず、ただ彼女に焦がれ、その身を燃やしているのだと、私はそこで初めて気づいた。
彼の恋した女神が、誰なのかを。




