第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十四場
「セデュイール、今日の公演が終わったら飲みに行かない? いい店を見つけたの」
シモンズ先生の控室で雑用――先生の飲み物を用意する、先生の燕尾服にブラシをかける等――をしているセデュイールに声を掛ける。彼は胡乱げに振り向いて、不思議そうに瞬いた。
「今日は何かあったか」
「いつも私の相談に乗ってもらっているでしょう。たまにはあなたの相談にも乗ってあげたくて」
「相談事などないが」
「そう? 本当に? 悩み事とか、心配事とか…」
「ない」
「強情なんだから…。…いいわ、それじゃ、ただ飲みに行きましょうよ」
「おれは酒は碌に飲めない」
「とびきり甘いカクテルを作ってもらいましょ、あなたの失恋の傷を癒すような。飲んで何もかも忘れてしまえばいいと思うわ」
「……」
セデュイールはふと眉を顰めて視線を落とす。やがて彼は了承した。終演後、楽屋前で待ち合わせることを約して、私たちは別れた。
薄暗いバーの扉を開ける。カラカラとベルが鳴り、紫煙が燻る店内を見透かすとちらほら人の姿が煙っている。
つい先日見知ったばかりのバーテンダーに手を軽く上げ、おとなしくついてくるセデュイールを先導してカウンターへ向かう。
「こんばんは、ジントニックを一杯もらえる?」
「こんばんは。珍しいわねえ、男連れ? ずいぶん綺麗な子じゃないの」
女性言葉のバーテンダーはセデュイールに向かってウインクし、背後の棚から琥珀色のボトルを取り上げる。
セデュイールはバーテンダーと話し込む私の隣に座して、落ち着かなげにその長い足を組む。
ここはオペラ座からも近い、地下にあるバーだ。最近開店したばかりで、まだ固定客もさほどついておらず、適度に空いていて秘密の話をするには最適な雰囲気の店だ。女性言葉のバーテンダーは気さくで人当たりがよく、女性だけで訪れても職場の同僚のように歓迎してくれる。
「お連れさんは何にする?」
「おれは、…」
バーテンダーに革張りのメニューを差し出され、並ぶ文字列に酒しかないことを悟ったセデュイールは諦めたように、一番下を指さした。
「これをひとつ」
「オーケー、待っててね、カワイ子ちゃん♡」
「…熱愛、熱愛だと? ばかばかしい、くだらない。あいつがそんなことをするものか、あいつに限って…」
セデュイールは最初の一杯が飲み終わる前にもうぐたりとカウンターに突っ伏して、ぶつぶつと栓なきことを呟いている。私は適当に相槌を打ちながら、ジントニックのグラスを傾ける。
セデュイールのタンブラーに入っているのはグリーン・アイズだ。メロンリキュールにラムやココナッツ、パイナップル、ライムの入った甘酸っぱいカクテルだ。
「カワイ子ちゃんは失恋でもしたの? ひどい荒れようねえ」
「だから連れてきたの。ひとりで抱え込みがちなひとだから」
「アンタも損な性分ねえ」
「そうでもないよ。これはチャンスだと思ってるから」
バーテンダーとこそこそ囁き交わす私に注意も払わず、セデュイールはとろんとした涙目でグラスを睨み続けている。薄緑色の液体はもう半分以上彼の胃の中に納まった。
「あいつは、誰とでもそうなんだ、あの男だけがとくべつなわけじゃない、誰とでも、そうやって、簡単に…人生経験だと? ただの戯れが、経験なんぞになるものか。どれだけ男と遊んだって、そんなもの、そんなもの…」
楽屋で、伸びあがるように上向いて、セデュイールに向かって笑いかけていたルーを思い出す。屈託のない笑顔は、とてもそんな、放蕩娘のものには見えなかったけれど。
あの清廉な顔の裏に、とんでもない乱行が隠されていたってことなのかな。
私はセデュイールが可哀想になってくる。あの日の客席で、彼女に注がれていた彼の視線を、私は知っているから。
「そんなにひどい行いばっかりしているの? あの子…もしかして、あなたも?」
「おれもあいつの人生経験の一部なのだろうさ。弄ばれた男の一人だ。…おれはあいつの養分なんだ、曲を作るうえでの…」
「あなたを利用してたってこと? ひどい…」
「…それはいいんだ。あいつの美しい曲の一部になれるなら、おれはそれでいい。おれの苦しみも、渇望にも、価値があるって思える。おれにはそれだけでじゅうぶんなんだ、じゅうぶんな見返りだ。あいつのそばにいて、あいつの曲を聞いて、あいつの音楽が生まれる瞬間に、いちばんちかくで立ち会えるなら、おれはなにを棄てたって良い…」
「でもそれじゃあ、あなたの人生はどうなるの? 指揮者としての人生は?」
「おれの人生? …」
「あなたにだって夢はあるでしょう。指揮者を目指したのだって、その夢のためじゃあないの?」
「おれの夢、おれの夢は…」
セデュイールはむくりと起き上がり、ぐいとグラスを傾ける。薄緑色の液体が揺れる。まるであの子の瞳のような。
「マスター、おなじものをもう一杯たのむ」
「そうこなくっちゃ。待っててね、…」
逞しい腕でシェイカーを振るバーテンダーをぼんやり見つめるセデュイールは過去を見つめるような目をしている。その視界に私はいない。もどかしくなって、私は彼の手を引く。
「忘れてしまいましょうよ。忘れた方がいいわ。そのほうが絶対、健全だもの」
「健全?」
「あの子はもうマルセルの恋人なのよ。あなたがいくら頑張ったって、…」
「恋人じゃない」
「え?」
「言っただろう。あの男も養分なんだ。ルーは筋金入りの音楽馬鹿だ。音楽にすべてを捧げているんだ。身も心もすべて、現世の人間が手に入れられるようなものじゃない」
「…それは、対象を神格化しすぎているというものじゃない? あの子だって人間でしょう」
「人間だ。人間だとも。精神が未成熟で、身体ばかりが成長して、あぶなっかしくて、いたいけで、…あいつは子供だ。まだ18歳の、未成年だ。なのにあの男はルーを、…ああ、あいつは拒まなかっただろう。そういうやつだ。すすんで身を投げ出したかもしれない。人生経験だとか言って。人の心がわからないなら体験するしかないとでもいうように。でもそんなのは、ただ自分を傷つけるだけだろう。妊娠でもしたらどうする。父無し子を産むことになったら? あいつは女なんだ、あいつの意思とはかんけいなく、欲望に眼差されるような肢体を持った…」
「それであなたは、父親みたいにあの子を守ってきたというわけ?」
「…父親、父親か。おれはしょせん、…あいつに男として見られていないことなんて、初めからわかってた。でなければあいつが、あんな条件を出すわけがない…」
「条件?」
「それがどうだ。あの男には何の条件もなく、付き合うことにしたのだそうだ。スタートラインから違っていたんだ、おれがいくら足掻いても届かなかった場所にあいつは立ってる。あいつはきっとあの男のことが、…いや、ちがう、あいつは恋愛なんかしない。ひとのものになどならない…だれのものにもならないでほしい。だれも愛さないでほしい。おれは、…あいつの不幸を願っているのだろうか。孤高のまま、ひとりで死んでほしいとでも思っているのか。神に捧げられた巫女のように? バカバカしい、愚かな夢想だ。あいつはもうおれを求めない。かわりができたから、新しい恋人ができたから、…恋人じゃない、養分だ。あの男だけとくべつなわけがない、…とくべつでなどあってほしくない。だれも、だれも…」
若干支離滅裂な、混乱したようなセデュイールの声が掠れて途切れる。いつになく饒舌になった彼は、ルーへの叶わない恋のために焦がれ死にしそうな彼は、ぐしゃりと両手で顔を覆って呻く。すすり泣きのような音が、その手の間から聞こえてくる。
私はそんな彼を見つめて、胸がしくしくと痛んで、何も言えなくなってしまう。
セデュイールをこんなにも苦しめているルーが憎い。誰とでも見境なく遊んで、男を弄ぶ、毒婦のようなルーが憎い。
…私が、彼を慰められたら。
彼の傷を癒して、ともに歩調を合わせて、歩いていくことができたなら。
ああ、それができるなら、私は他の何を棄ててもかまわないだろう。夢も、未来も、希望すらも。
――それは、私が先ほど批判した、彼の思考と同じものかもしれないけれど。
「――ああ、ローラ、ここに来てたのか、よおマスター、ビールちょうだい」
気負いのない声に名を呼ばれて、私は我に返る。音楽学校時代からの同期のトランペット吹きが、同僚たちと楽器を持ったまま押し掛けたところだった。
既に一軒回った後なのか、みな赤ら顔でいつもよりも声が大きくなっている。テーブルに就いた同僚たちから離れカウンターに肘をついたトランペット吹きのピーターは、二杯目のグラスに口をつけるセデュイールを見つめて「そういえば」と口を切った。
「オペラ座にお前の客が来てたぜ、セデュイール。俺たちが出てくるとき。もうお前はいないよって言っちまったけど。それが、誰だったと思う。ローラ?」
「誰よ。勿体ぶらないで教えなさいな」
「昼間話してたあの子だよ。前楽屋に来てた、ルー様だ。やあ、可愛くていい匂いがしたなあ。俺もベッドに呼ばれてみてえ!」
がたんとセデュイールが立ちあがり、「会計を」とバーテンダーに性急に告げる。
「待って、今から行ってももういないわよ。無駄足になるだけよ」
「今夜はつきあってくれてありがとう。愚痴を聞かせてすまなかった。これは彼女の分も。釣りは要らない」
財布から100フランを取り出しカウンターに叩きつけるように置くと、セデュイールは席を立つ。私は思わず腰を浮かせて、彼の手を取った。
「行かないで、あの人のところなんかに行かないで。あなた傷つくだけよ。みじめな思いをするだけよ」
セデュイールはちらりと壁に掛かった時計に目をやり、私の目をジッと見て――
丁寧に、縋りついた私の指を外していった。
「傷ついてもいい。望むところだ。あいつがおれを呼ぶのなら、おれはどこにだって駆けつけないと」
「弄ばれるために出ていくの。そんなの異常だわ」
「異常だとも。あいつに追いつくためならば、異常にくらいならなければ」
風のようにセデュイールは店を出て行った。後には取り残された私と、ピーターと、まるで何事もなかったように盛り上がる同僚たちだけが残された。




