第一幕『雨が止むまでこの恋を』第十五場(第一幕・完)
いつの間に振り出したのか、霧雨に濡れた石畳の道を駆ける。シャワーのような柔らかい雨がさあさあと夜空から降り注ぐ。
閉館したオペラ座の、ファザードの庇の下にルーはいた。雨が吹き込むエントランスに腰かけて、無防備に両足を投げ出して濡れるに任せている。ぼんやりとしたその双眸が持ち上がり、おれに気付いて顔を上げる。
すらりと通り過ぎて行ったタクシーのヘッドライトが一瞬ルーの表情を照らし、素知らぬ顔で走り去っていく。
その頬が濡れているように感じておれは胸が締め付けられる。小走りにファザードに駆け寄るおれを、ルーは座ったままで見上げていた。
「どうしたんだ。連絡をくれたら、迎えに行ったのに」
「きみはいそがしいだろ。…お酒と煙草のにおいがする」
「それでも、おまえに呼ばれるなら、おれはどこだって…」
「彼女さんと飲んでたんだろ。邪魔しちゃってわるいね」
自嘲するように言って立ち上がる。グレーの格子模様のワンピースは泥で裾が汚れている。どこかで転んだのだろうか。あるいは車に汚水を浴びせられたか。
いずれにしろ、セレブのルーには相応しくない。セレブの恋人でもある、ルーには。
「…彼女だと。誰のことだ」
ひどく汚れた装いのルーに胸騒ぎを覚えつつ上の空で聞けば、ルーは唇を尖らせる。
「惚けるなよー、知ってるんだからなーぼくは」
「おまえがなにを知っていると言うんだ」
「……」
ルーは俯く。ぽたりと雨の雫が長い前髪から滴り、僅かな街灯に、ヴェールのようにそのブロンドを覆う光の粒が浮かび上がる。きらきらとささやかな星の光のようにそれは瞬く。
「けんかしたいわけじゃない。話したいと思ってきたんだ」
「はなし?」
「しばらく、パリからはなれるから」
さあっとまたタクシーが滑るように通りすがり、道の端の泥を跳ね飛ばしながら去っていく。
ルーはようやく顔を上げ、頼りなげな瞳を揺らしておれを見る。
「…どこに、いくんだ」
「ハリウッドに。マルセルに誘われて…あっちで仕事しないかって、…」
「承諾したのか」
「事務所にも、もう伝えた。新天地にむかうのも、いいかなあっておもってさ。パリからも離れたかったし」
「報道のことか。あんなものを真に受けるのは一部の、下卑た連中くらいのものだ。おまえの活動に差し障りは、…」
「それだけじゃないよ。というか…そんなことじゃない」
「ならなんだ」
夏の夜の雨に、むき出しの腕が凍えているように見え、おれは上着を脱いでルーの肩に掛ける。水滴を払うように手をやると、ルーの背がびくりと跳ねた。
緑の瞳は水を含んで潤み、決しておれの触れられないその肌は庇の陰に薄青く澄んで、泉から上がったばかりのニンフのようだ。
「――きみに、さよならって、言いに来たんだ」
雨に途切れそうな、か細い声がそう囁く。
「…ルー、…」
「あいさつくらい、きちんとしなきゃ、でしょ? 父さんもそう言ってたし。きみにはたくさんお世話になったから、いっぱい甘えて、困らせたから。これでも悪かったなアって、おもってるんだぜ。ほんとだよ…」
「おれは、困ってなんて、…」
「嘘、いわなくていいよ。もうさいごだし。もうきみには、…あわないから」
「…おわりなのか」
「うん。そのほうがいいとおもう。なんていうか…ふっきらないと、先に進めないから」
「進めなくてもいいと言ってもだめか」
「ええ? そいつはちょっと…こまるなア。きみはそんなこと言わないとおもってた」
「どうして」
「だってきみは、…ぼくに進んでほしいでしょ? ぼくのハリウッドでの大活躍、聴きたくない? 映画の主題曲とか書いちゃうんだ。それでいまよりもーっと有名になって、たくさんファンも増えて、ロスに大豪邸なんて買っちゃったりして!」
アハハ、とルーは笑う。雨の音ばかりのエントランスに、それはひどく虚ろに響く。
「聴きたいよ。おれは聴きたい」
「だよね! そう言うとおもってた! それでこそきみだ! うんうん、ありがとうね。きみのことはわすれないよ、きっと何度も思い出すよ。アメリカに行っても…ばかみたいにまじめで、一途で、…ぼくの音楽を誰よりも愛してくれた、きみのこと…」
「おれは、…おまえについていきたい。おまえの近くでそれを聴きたいんだ、一番じゃなくてもいい。おまえが誰を愛していたってかまわない。おれに、おれに振り向いてくれなくったって、…振り回されるだけだっていいんだ。おれはおまえが、ずっと、おまえだけが、…」
「え?」
唖然としたルーの、見開かれた瞳が、おれを射抜く。言葉は止まらない。酔っているせいだろうか。酔いに任せて告白するなんて最悪だ。情けない。恥を知れ。ルーを困らせてどうする、こんなところで、みっともなく縋りついて、…18のこどもに、おれの人生まで、背負わせようと言うのか。
その細い腕に、しなやかな、長い指に、おれの愛する、おまえのすべてに――
「聴かせてくれ、どうか、おねがいだ、おまえを愛することを、ゆるしてくれ、ルー…」
雨ではない、涙で頬が濡れている。ルーに触れられないままにおれはそう言い募って、凍り付いたように動かない、ルーの瞳に胸が締め付けられ、苦しくて、乾いて、焦がれて、求めて、求めて、求めて…
どしんと身体をぶつけるように飛びついてきたルーを、呆然と受け留める。
「ルー、…?」
「…きみはもう、心がわりしたのかって、おもってた」
「…何、」
「君が愛してるのはぼくじゃなくて、ぼくの才能だけで、…きみの想いは、愛情は、ぼくには得られないものなんだって、…そうおもって、あきらめなきゃって、ずっと…」
「……」
「あきらめなくても、いいんだね? きみといても、いいんだよね、セデュ」
「……ああ、傍に置いてくれ。おまえの一番近くに、……」
ルーが胸元に擦りつけていた顔を上げる。晴れやかな笑顔が、そこには浮かんでいる。霧雨の降る夜に、ちかちか瞬く星のように。匂い立つ、泉の傍の花のように。
身体が宙に浮いているように覚束ない。おれのすべて、おれの希望、おれの夢、――おまえと舞台で協演することがおれの夢だ。まだ誰にも伝えていない、ピアノをあきらめたおれの、ただひとつの望みだ。
――おまえがいなければ、叶えられない。
「ねえ、こんどはきみからキスしてよ。婚約の誓いの、かわりだよ」
「…いいのか、」
「あの約束、おぼえてるよ。今夜はぼくはきみに負けちゃったから、…完敗だから、もうきみにぜんぶあげちゃうよ!」
「体の関係はまだだめだ。成人するまで」
「おかたいなア! それでこそきみだ!」
悪戯っ子の顔でくすくす笑う、どんな甘味よりも甘い唇に口づける。
うっとりと目を閉じたルーはおれにしがみつき、重なり合った影はしばらくの間離れなかった。
ハリウッド行きを断ったルーが、雨の音と心音とふれあう体温と、キスで構成された甘い曲を作ったのは、その翌日のことだった。




