第四幕『突然、嵐のごとく』第八場
「今の人、あんたのお兄さん? 色っぽくて、綺麗な人だったわねえ。モデルさんか何か? それとも俳優さん? オペラ座のショーにでも出てるの?」
「…お兄さんじゃない。かれはぼくのこいびと」
座席に突っ伏したままでボクは呻る。腹の奥がまだウズウズして、むず痒くて、どうしようもない。セデュに鎮めてほしかったのに、彼なら、ボクより年上だし、経験豊富そうだし、やり方をわかってるはずって思ってたのに。
…またフラれちゃった。
ぐっと唇を噛み締める。ボクは泣かないぞ。こんなことで泣くもんか。今日初めて会ったお姉さんの前で、みっともなく、ピーピー泣いてたまるか。
「恋人ォ? カレシ持ちの子に手を出したってコトォ? マルセルもホント、どーしよーもないわね。クズよクズ。最低のクズ。顔がイイから許しちゃうけどー」
「……」
マルセルはさっきのお店に置いてきちゃった。彼の顔がこれ以上見ていられなくてボクは逃げたのだ。親切にしてくれるお姉さんに縋って。
身体を捥ぎ離す前までの、どきどきした熱と、渦に巻き込まれるみたいな気持ちよさが蘇って、僕は拳を握りしめる。
「…クズはボクだ。恋人がいるのに、セデュがいるのに…マルセルに抱かれても、いいかなって思っちゃった。気持ちよくて、流されちゃってもイイかなって、…」
「あらあ」
お姉さんは運転席でハンドルを握ったまま感嘆の声を上げ、黙り込む。
――お姉さんが部屋に来てくれなかったら、ボクはきっとマルセルに抱かれてた。最後までいっちゃってたとおもう。…セデュがボクを抱きたくないっておもうのも当然だな。こんな、どっちつかずの、尻軽女。ボクだって自分で、最悪だなって思うもん。
ボクを押し倒してのしかかってきたときの、マルセルのあそこはもうバッキバキに勃起してたけど、さっきのセデュは全然そんな感じじゃなかったな。もう、沈黙って感じ。むしろドン引きしてたみたいだった。もう、セデュがインなんとかなのかどうかとか、そういう問題じゃなくて、そもそも、ボクを抱く気が、セデュになくなっちゃったとしたら、したら…
「セデュは、ボクのこと、どうしたって、抱いてくれないのかな。ボクがあんまり、バカだから、バカで、無分別で、尻軽で、…す、好きな人を、平気で裏切るような、こんな…」
「…仕方ないわよ。そういうこともあるって。完璧でなんていられないのが人間でしょ?」
「そういうんじゃないよ。セデュの愛に、後ろ足で砂かけるみたいな行為だよ。最後まで、マルセルにされてもいいっておもうなんて、…」
「潔癖なのねえ。そんなの誰でもやってることよ。気持ちいいのが好きなのだって別に誰に咎められるようなことでもないわ」
「セデュはボクを、大切にしてくれてたんだ。いままでずっと、ただそばにいられるだけでいいから、って…なのに、なのにボクは…」
「ついたわよ」
振動とともに車が停まり、お姉さんは手元のレバーを引く。車窓の外にあるのは見慣れた景色だ。ルーブルの傍の、セデュのアパルトマンだ。
「あんたは、もううちの店には来ない方がいいかもね。彼氏が大切なのならなおさら、マルセルなんかの口車に乗ったら駄目よ」
お姉さんはそう言って扉を開け、後部座席のドアも開けてくれる。促され立ち上がろうとしたボクがよろめくと、すぐに肩を貸してくれる。
「まだ歩けない? 部屋はどこ? つれてってあげる」
セデュの部屋の郵便受けを探って鍵を取り出し、エレベーターで4階へと上がる。見慣れた白壁と埃の匂いになんだか胸がきゅんとして、たった数時間離れていただけなのに、ひどく懐かしい気分になる。
「お姉さん、ありがとう。あなたは優しいね、…」
「アタシは人の世話を焼くのが好きなだけ。おせっかいなのよ」
「おせっかいでも、うれしいよ。なんだか人肌が恋しかったから」
「あんたかわいいわねえ。アタシが慰めてあげちゃおうかしら」
鍵を回して扉を開ける。脚を縺れさせるボクに肩を貸して、お姉さんは客間までボクを運んでくれた。
「マルセルに何か飲まされたんじゃない? マダムの秘薬? んもう、ダメよぉアレ、何が入ってるかわかったもんじゃないんだから。いっぱいお水飲んで、全部出しちゃいなさい。水道はどこ?」
ソファにぐたりと横たわったボクのために、お姉さんはてきぱき立ち働き、キッチンから水を入れたグラスを持ってくる。
「メルシ」
「気分は悪くない? ムラムラするだけ? 彼氏が帰ってくるまで待ってられる? 彼氏いつ帰ってくんの?」
「たぶん、11時過ぎ…」
「あと6時間もあるじゃないの! じゃあ夕飯の用意もしたほうがいいわね。動けないでしょ? キッチン借りるわよ」
それから、ソファに疼く体を横たえたまましばらく呻って、流れ出る汗をクッションに吸わせて、もぞもぞ膝を擦り合わせて、…パンツをマルセルのところに忘れていたことにようやく気がついた。
でももう取りにも戻れない。せっかくセデュが買ってくれたパンツなのに…。
…また買ってくれないかな。もう嫌だって怒られるかな。そもそもセデュは怒ってくれるのかな。ショックを受けたみたいに固まったセデュの顔が脳裏に明滅する。信じられないものを見るみたいな目だったな。ボクがマルセルに会ってきたことは、セデュはしらないはずなのに…。
「用意できたわよお。アタシもついでに食べてっちゃお。いいわよね? ほら、起きられる?」
「んぁ、メルシ…」
お姉さんに抱え起こされて、僕は微睡んでいたことに気付く。腹の底の方はまだウズウズするけど、我慢できないほどじゃない。ひとりで立って歩けもする。ダイニングに向かいながらボクはほっとため息を吐いた。どうやら、媚薬の効き目も、切れてきたみたいだ。




