第四幕『突然、嵐のごとく』第一場
早朝のパリの街を駆ける。体力のないルーはすぐに息を切らしてへたり込み、彼女の姉が追ってくる中、おれはルーを背負ってアパルトマンに帰り着いた。
エレベーターを待つ間も惜しく階段を駆け上がり、扉の前で立ち止まって鍵を回す。
「はやくはやく! 急いで急いで!」
おれに背負われたままのルーはそう笑いながらおれを急かし、ガチャリと開かれた扉に歓声を上げた。
「間に合ったね! やったぁ! さすがセデュ! なんでもできるボクの恋人♡」
扉が閉まりきる前に背から飛び降りたルーはぐるりと前に回り、首っ玉に抱き着くようにして頬を擦り寄せてくる。健康的な汗の匂いを珍しくも纏ったルーは頬をバラ色に染め、上機嫌な子猫のようだ。
「なんでもできるは褒めすぎだ、それよりご家族に妊娠の話は、…」
「嘘だって伝えたかってこと? まだ言ってない。それどころじゃなくてさ…父さんはボクにハリウッドで出産しろとか言うしー」
「……お前の評判を慮ってのことだろうな」
「ボクの評判が悪くなったら仕事がなくなって収入が減るからだろ! 父さんは自分たちのことしか考えてないもん!」
「お前が心配なんだろう」
「よけーなお世話だよ! ボクはハリウッドには行かないって決めたんだからな!」
愛らしく頬を膨らませ憤懣やるかたないといった風情のルーはそう言って、背伸びして、ぐいとおれの頬を両手で摘まむ。
そのまま顔を近づけようとするのに慌てて飛び退くと、不満げな声を彼女は上げた。
「なんだよー。拒否するのかよー。ボクからのキスだぞう!? もっとうれしがれよう」
「キ、…っ、…今はそれどころでは、…」
「姉さんもあきらめたみたいだし、君が仕事に行くまで時間もあるだろ? 男と女がふたりっきりでぇ、一つ屋根の下でぇ、やることといったら一個しかないだろぉ~?」
「朝っぱらから何を言っている」
「君こないだはボクを押し倒してたじゃないか! やりたいんだろ!? 我慢すんなよもう!」
「…あれは、お前が妊娠していると聞いて、一杯一杯になって、……。言い訳だな、すまない。もう二度とあんな真似はしない」
「いや、していいって言ってるんだけど!? こないだはちょっといきなりすぎてビビっちゃったけど、もうちゃあんと覚悟決めたから!!」
「…覚悟?」
「ちゃんと予習もしたし! どんなアブノーマルなプレイがきたって驚かないぞ!」
「アブノーマルなプレイをするつもりはないんだが…」
それよりも予習、という言葉が気にかかる。こいつはピアノのレッスンのようなつもりで、誰かと寝てきたとでもいうのだろうか、それこそマチウとでも、…。
いや、誰と寝ていたとしても彼女が今選んでくれたのはおれなのだ。あんな身勝手な真似をしたというのに、傍にいることを許されたのだ。最悪、コンサートに観客として赴くことすら拒否されかねないと思っていたおれにとっては、これ以上喜ぶべきことはないじゃないか。
おれは彼女を大切に扱わなくては。独りよがりな欲望をぶつけることなく、真綿にくるむように、彼女が傷つくことのないように、慈しんでいかなくては、…。
「そういうことは、お前が成人してからでも遅くない。おれは決めたんだ。お前がきちんと大人になるまで待つと、」
「…ボクはもうおとなだもん」
「まだまだお前は子供だよ。無鉄砲で奔放で、…無邪気で、天真爛漫で、…」
「それってきみが好きなトコじゃないの」
「それはそうだな、」
「じゃあキスもダメ?」
「…舌を入れないキスなら、…」
「…」
煽るように唇が突き出される。誘うようなその唇におれはそれ以上抵抗せずそっと吸い付いて、どこか甘い味のするようなそれを味わう。
「ン、んう…」
触れるだけのキスを何度も繰り返して、華奢な腰を抱き寄せると、軟体動物のようにぐにゃりとルーの身体が撓る。
「んん、ぅふ、っふぅう・・・ン」
呼吸の合間にルーの喘ぐ声が聞こえ、これ以上つづけるのはまずいと脳が危険信号を発し始める。しかし安心しきったように脱力したルーの身体と、吸い付いた唇の柔らかな弾力が頭に霞を掛けるようで、誓いを立てた傍から、おれの自制心は揺さぶられ、ぐらぐらと眩暈がするようで、天地がさかさまになったようで、…
吐息が途切れた瞬間に、くうう、と子供の獣が鳴いたような音がして、おれは唇を離す。危なかった。冷静になれず、このまま先日の二の舞を演じるところだった。目の間のルーはぼんやりとした眼差しを潤ませ、頬を染め、唇は半開きで肉色の舌がちらりと覗いている。いつものような軽薄な言葉も発せず、無防備で、とてつもなく誘惑的な風情でいる。
おれは視線を不自然に逸らしながらルーの背を抑えてきちんと立たせ、獣の鳴き声の所在を探ろうと首を回して、
きゅるるるる、とつづいてルーの腹の虫が呻くのを聞いた。
「………」
「………」
ちらりと見下ろしたルーは耳まで赤く染めて顔を覆っている。肩が小刻みに震えている。よほど恥ずかしかったのだろう。生理現状なのだから、恥じることなどないのだが。
「…朝食にするか」
「ホットチョコレートもつけてね」
「了解」
おれの裾をちょこんと摘まんだ手を離さず、ルーは親鳥を追うひよこのようにキッチンまでついてきた。




