第三幕『狼と天使のワルツ』第十場(第三幕・完)
どしんと尻餅をつくような形で、叢におれは倒れ込む。
おれを下敷きにしたルーは「ワア」と能天気な歓声を上げている。
「すっごい、ばっちりのタイミングだねえ! これって運命かなア?」
けらけらといつも通りに笑うルーに毒気を抜かれつつも、おれはがばりと身を起こす。ルーに怪我はないだろうか。どこか捻ったり、傷ついてはいないか? ルーの腕に、手に、指に、もしものことがあったら、万が一、楽器が弾けなくなりでもしたら――
「どこにも怪我はないか!? 痛むところとか…」
「ないない、きみが受け止めてくれたからね。ピンピンしてるよー!」
頭に芝草を載せたままそんな風に言って笑う。おれはぐたりと脱力して、それから溢れ出る感情に一杯一杯になって、顔を覆った。
「ばか、あんな無茶をして、…おまえにもしものことがあったら、おれは…」
「だって閉じ込められちゃったんだもん。きみに会いに行くには、無理矢理抜け出すしかないだろ?」
「それにしたって、やり方というものが、…おまえには子供もいるんだ、あんな危険を冒して、流れてしまうかもしれないだろう、…」
「ああそれ? 嘘だから。子どもなんていないよーボクは」
「は???」
おれの上に載ったまま、あっけらかんと言ってのけるルーを凝視する。理解が追い付かない。今、子供はいないと言ったのか?
「君と引き離されそうになって、つい言っちゃったんだ。ごめんよ。だってマルセルと結婚なんて絶対嫌だったんだ。ボクは、きみの花嫁さんになるんだからね!」
蕾が花開くようにルーは笑って、おれに抱き着いてくる。柔らかいその肌が、ぴったりと、何も恐れるものはないかのように、おれに寄り添う。
おまえはいつも、おれを許してしまうのだ。こんな醜悪な、下卑た欲望塗れの、どうしようもない男を、おまえに相応しくない、凡百の才能しかないおれを、おまえは、おまえは、――
「…シャンプーのにおいがする」
「…え、」
「どっかでシャワー浴びてきやがったな。この浮気者っ」
がばりと身を起こしたルーに睨まれる。至近距離で、膨れた頬が愛おしい。子どもっぽい拗ねた顔も、咎めるような口ぶりも。
おまえのすべてが、おれには愛おしくてたまらない。
「…浮気など、できるわけがない」
「ホントかよ? きみはモテるだろ、オケの子とか、オペラ歌手とか、職場にいーっぱい恋人候補がいるんじゃないの?」
「誰に誘われたとしても、おれにはおまえだけだよ」
「口説き文句で胡麻化すつもりだな。この色男!」
おれの頬を両手で抓りながらルーが言う。その白い手に指を絡めて、おれは彼女の瞳をじっと見つめる。吸い込まれそうな碧色。求めてやまない、おれの宝石。
「違う。おまえしか目に入らないんだ。おまえに初めて会ったときから、おれは、…おれには、おまえが凡てなんだ」
「……」
「おれのせいで、おまえを怯えさせてしまって、おまえに見限られたと思って、友人のところに行っていた。おまえがいない部屋に、帰りたくなくて、…情けなくて、女々しい男だろう。軽蔑してくれていい…」
「けーべつとかは、しないけどさ。ぼくもけっこう、ロクデナシだし、…」
「おまえは違うだろう、たまに馬鹿なことは仕出かすが」
「バカって言うな。ぼくだってちゃんと考えてるんだぞう! …そうじゃなくて、なんていうか、…情けないとか、女々しいとかさ。そういうのも含めてのきみなんだろ。弱いとこも、あったっていいじゃないか。真面目で立派なだけじゃなくて、…ぐちゃぐちゃの、ドッロドロの気持ちとかさ、どうしようもない思いとかさ。そういうところも見せてよ。ぼくは軽蔑したりしない。すごく人間って感じがして、生きてるって感じで、いいなあっておもうよ。ボクは」
「――」
「ルー、何をしてるの!?」
「うわやっべ」
ルーの部屋の窓から半身を覗かせているのは彼女の姉だ。引き千切られた布を手繰り寄せ、愕然とこちらを見下ろしてくる。
「行こ、セデュ、逃げよう!」
「待ちなさい、このお転婆娘!」
彼女の姉は窓辺から身を翻す。階段を駆け下り、こちらへ向かっているのだろう。
ルーに手を引かれ立ち上がりかけて、おれは庭に散ったスコアに慌てて振り返る。
「待て、おまえの譜面が、…」
「そんなのいくらでも書き起こせるよ! ぜんぶ頭に入ってる、ボクは天才だからね!」
天真爛漫に笑って、ルーはおれの手を引き駆けだす。
おれの女神で、天使で、妖精のルーは、そんなふうにしておれの価値観を易々とひっくり返して、日の射す方に連れて行くのだ。
前を行く、芝草の載った、乱れた長いブロンドに朝日が散ってちかちかと星のように瞬き、開かれた視界は虹色にきらめく。
歌うような軽やかな彼女の声にまた胸が苦しくなりながら、この苦しみこそが、おれにとっての喜びなのだと感じる。
「ルー、愛してる!」
くるりと振り返った彼女は悪戯っぽい顔で肩を竦めて、またおれに笑いかけた。




