第三幕『狼と天使のワルツ』第九場
夜明け前の街を歩きアパルトマンにたどり着く。郵便受けの中には部屋の鍵がひとつぽつんと放り入れられている。
ああ、やはり、という納得が最初に来て、鍵をポケットに入れ歩き出す。
蝸牛の殻のような螺旋階段は北側を向いていて日が差さず冷え切っている。
静寂の中をコツコツと革靴の音だけが響く。ピーターから借りたシャツに昨夜のままのスラックスで、おれは肩に掛けた荷物を背負い直し、4階にある部屋を目指す。
年季の入った扉は鍵を開けるのにコツが要り、扉を開くとすすり泣きのような軋みを上げる。
まっすぐに寝室に向かう。ルーのトランクはそのままで、抜け殻のような夜着がベッドに放り出されている。
ルーがいないことを何度も確認し、そのたびに槌で殴られ地中に埋められたような気分になりながらおれはベッドに腰かける。ルーの温もりが残っていないかとシーツを弄っているのに気づいて、おれは掌を握りしめ、ぱたりと倒れる。
体臭のうすいルーのにおいは感じられない。第一、彼女がいつ出て行ったのかもおれにはわからない。
…ここで待っていたら、彼女は帰ってこないだろうか。荷物はそのままなのだ。クローゼットを覗いたら、彼女にプレゼントしたブラウスもドレスもそのまま残されていた。
――おれからのプレゼントなど、もう要らないという意思表示なのかもしれないが。
行き場のない掌が彼女の夜着を掴み、引き寄せる。
ブルーグレーのシルクのそれは、彼女の身体には合わなくて、折りたたまないといけないくらい袖は長くて、裾も下着を隠すほどで、まるでワンピースのように見えていた、…
顔を埋めると微かにルーの香りがする。花のような、砂糖菓子のような、心を蕩かし、脳髄を痺れさせるルーの匂いが。
どうしようもない男だ。去っていった彼女の残り香に縋って、未練たらしく、彼女のことにばかり固執して。
おれは顔を上げる。切り替えろ。この業界にいる限り、また彼女と接する機会はいくらでもある。彼女がおれともう二度と会いたくないとでも言わない限りは。…会いたくないと言われたとしても、おれには彼女の作る音楽がある。彼女の奏でる音楽が。舞台の上の彼女を客席から観ることくらいは、彼女とておれに禁じはしないだろう。
音楽はルーの魂だ。美しく純粋で、溌剌として、天真爛漫で、聴くものを酔わせ盲目にさせる。
音楽に触れている限りおれは彼女と共にいられるのだ。素晴らしいことだ。音楽は誰にも開かれている。こんなおれにさえも。
鍵を取り上げおれは立ちあがる。走って頭をすっきりさせよう。これ以上、自分にうんざりする前に。自分を殺したくなる前に。
死んでしまえば、彼女の音楽は聴けなくなるのだ。それだけはどうしたって、嫌だった。
セーヌ川を渡り左岸を走る。何も考えないですむようにスピードを上げ、流れ去る景色にも拘泥しない。曇り空から朝日は見えない。どんよりとした厚い雲が天蓋のように空を覆い、石畳の道を昏くしている。
駆けているうちに見慣れた風景が目の端を横切る。プラタナスの街路樹、信号、車通りの少ない大通り、町の名を表示する標識、街角に建つアパルトマンの黙然とした窓硝子、…
ルーの家の近くだ。無意識のうちにこんなところまで来てしまった。自分の執着心のどうしようもなさにげんなりして足早に通り過ぎる。
ルーがここに戻っていたとして、追いかけてきたおれに気付いても彼女が感じるのは恐怖だけだろう。
彼女を怖がらせるのは本意ではない。ただでさえ、身勝手な欲望をぶつけて、怯えさせてしまったのだ。もうルーの、あんな顔は見たくない。
目を伏せ、なるべく見ないようにして、彼女の家のすぐ真横を通り抜けようとした時だ。
行く手にひらりと紙片が舞い落ちる。
足を止め拾い上げるとそれはスコアだ。殴り書きの音符が、ひどく哀切な調べを奏でている。
顔を上げるとばらばらとスコアの雨が降ってくる。
これはルーの直筆の譜面ではないだろうか。こんな路上にばら撒かれるに相応しくない、宝物のようなそれらを、おれは跪いて拾い集める。こんなにも無防備に投げ出されて、自動車に轢き千切られでもしたら、人の靴に踏み拉かれたら、自転車の車輪の跡でも付いたら、――ルーの魂が汚されたなら、おれはとても、正気ではいられない。
かき集めたスコアを胸に抱いておれは窓辺を見上げる。スコアをばら撒いた犯人が、今度は白く長い布のようなものを放り投げ、窓の隙間から半身を現す。
乱れたブロンドが風に靡いてその白皙を隠し、呆然と見守るおれの面前で彼女は身軽に窓から抜け出て、垂れさがる布に捕まってだらりとぶら下がる。
あっ、と思う間におれは駆け出していた。心臓がドクドクと早鐘を打つ。頭の中にはルーのことだけだ。布は地上に着くほど長くはなく、1階の窓枠の上縁までしかない。それでなくとも、あんな布切れ一枚で彼女の全体重が支えられるものか。現に今、引き攣れた布が耐え切れず、千切れていくのが見える。体力のないルーは必死に布切れにしがみ付いているだけで、そこから身体をずらすこともできずにいる。
開け放たれたままの門を潜り垣根を飛び越え、窓の真下におれは飛び込む。びりびりと引き裂かれる音が大きくなり、ふわりとルーの身体が宙に浮く。
雲の切れ間から日が射しこんで、揺れるブロンドの隙間から、朝の海のような碧の瞳が煌めく。
真珠のような頬を愛らしい薔薇色に染めて、おれの天使が、おれの真上に落ちてきた。




