第三幕『狼と天使のワルツ』第八場
「父さんッ、――」
鍵のかかっていない扉をバタンと開けてボクは叫ぶ。足を運ぶのももどかしく感じながら突き進む廊下の先に、姉さんが姿を現す。
少し疲れたように解れた髪と、草臥れたブラウスにロングスカート。一晩中看病していたみたいな恰好だ。
「父さんは、どう、どうなの、いま――」
「寝付いたところよ。今は安定してる。あなたは部屋で待っていて」
「父さんにあわせてよ、ボク、謝らなきゃ、」
「勝手な子ね。寝付いたばかりだと言ったでしょう。騒がないで待っていなさい」
ぐいと腕を掴まれ引き摺られる。階段を上って、放り込まれたのはボクの部屋だ。ボクが出て行った日のまま、ベッドカバーもデスクの上のランプの傘も、同じ菫色だ。
「父さんの具合はどうなの。ひどく悪いの。ボクが会えないほど? お医者様は? 母さんは病室にいるの、」
「父さんはあなたのことが心配なの。それも当然よ。18歳で妊娠なんて、冗談じゃないわ。しかも子供の父親はセデュイールですらないのでしょう。マルセルとは寝ていないと言ったわよね? なら父親は誰なの、行きずりの男とでも言うつもり?」
腹立たし気な姉さんの声が言って、窓辺にいたボクは愕然と振り返る。
「…セデュと話したの? 姉さん、どうして…」
「あなたがこれ以上バカな真似をしないように釘を刺したの。あのひとはショックを受けていたわよ。誰の子かもわからないような子どもを、素知らぬ顔で産むつもりだったあなたの下劣さにね」
姉さんはボクを睨みつけながら吐き捨てる。ボクが憎くて仕方ないみたいな顔だ。袋小路に迷い込んだみたいだな、ボクは自分で自分を追い込んでるようだ。
「…うそ、だよ、ぜんぶ…」
「あなたの生き方だから勝手にすればいいと私は思うけど、父さんはそうはいかないの。手塩にかけたあなたがみすみす不幸になるのを見過ごせないのよ。悲しい親心ね」
言ってくるりと姉さんは踵を返す。バタンと扉が閉められて、外から鍵をかける音がする。
不審に思ってドアノブに取り付き、それを回しても、扉は何かがひっかかっているみたいに開かない。
「ちょっと、姉さん、なにこれ!? どういうこと、」
「あなたはもう家から出しません。これは我が家の総意よ。マルセルさんには連絡してあるわ、じきに彼が来るでしょう。あなたをハリウッドに連れ去るためにね」
扉の向こうから冷然とした姉さんの声が言う。ボクはぞっとしてむちゃくちゃにドアノブを回した。
「行かないってば、ボクはマルセルとはもう別れたんだ! セデュに会わせて、彼を呼んでよ!」
「できるわけがないでしょう。あなたの悪趣味な人生に彼を巻き込まないで! あなたは彼に相応しくないのよ!」
「はあ!? なんだよそれ、ボクほどセデュに相応しい人間はいないぞ!!」
「どこからそんな自信が湧いてくるのよあなたは…」
「もしかして危篤ってのも嘘なのか!? ボクをおびき寄せるための罠だったのかい!? なんて卑劣なことをするんだ!」
「あなたにだけは言われたくありません! この、だらしのない、尻軽女!」
「ボクはビッチじゃない!」
ぎゃあぎゃあと扉を挟んで姉妹喧嘩をしていると、それを仲裁するような厳粛な咳払いが聞こえる。扉の向こう側に、父さんも来たみたいだ。ほんとに危篤ってのは嘘だったんだな。とりあえずよかった…。
「妊娠の話は聞いた。お前はしばらくパリを離れなさい」
「父さん、ちがうんだ、それは…」
「出産はハリウッドでするのだ。マルセル君にもお前の事情は伝えてある」
「うげっ」
「それでもいいと彼は言ってくれているんだ。それほどまでにお前を愛していると言うのだよ。素晴らしい青年じゃあないか。一体何が不満なんだ」
「…マルセルがどーとかじゃなくってさ…」
「とにかく彼が来るまでそこで頭を冷やしなさい。行こう、マリアンヌ」
「ええ」
「ちょっ、ボクの発言権はないのかー!? 父さん!? 父さん! 姉さん! 母さーん!」
ドンドン扉を叩いて喚いても彼らは移動してしまったみたいで返事はない。
ボクは自室にひとり取り残され、呆然と天を仰いだ。
…ここで待っていたらマルセルが来ちゃう。ボクをハリウッドに連れていくだって? 冗談じゃない! そんなの拉致と一緒じゃないか。ボクは断固反対する。父さんは無事だったみたいだし、もうこの家に用はない!
きょろきょろ部屋を見回す。出入口はひとつきり。他には大通りに面した縦長の窓がふたつ。全開にしたら、ボクの身体くらいは通りそうだ。ただここは2階で、梯子の類はここにはない。…
まあいいや、なんとかなるだろ。いや、なんとかしてみせる。
ボクはベッドからシーツを引っぺがして、その端っこを窓辺に置いたデスクの足に括りつけた。
覚醒したときに真っ先に目に入ったのは、学友の毛深い脚だった。
頭の中で大太鼓が頻りに鳴っている。むくりと身を起こすと、ソファに掛けられた冬仕様の毛糸のカバーが擦り落ちた。ローテーブルの上には酒瓶がふたつ転がっている。学友は床で寝ていて、おれの上に足だけ載せていたようだ。
汗じみた身体が鬱陶しい。酒場でピーターとしこたま飲んで、それ以降の記憶がない。学生でもあるまいに、飲みすぎて意識を失うなど、なんて大人げない…。
…ここはピーターの部屋だろうか。彼の部屋を訪れるのは初めてだ。それにしても散らかっている。ジャケットもズボンも靴下も脱ぎっぱなし放りっぱなしで酒瓶の隣に置かれた皿に載ったマリネからは饐えたにおいがしている。
このだらしなさはまるでルーのようだと思って、彼女にしてしまった自分の仕打ちを思い出して、また気持ちが沈み込む。
家に帰りたくない。家に帰って、彼女の居ない部屋を見て、打ちのめされる自分に向き合いたくない。
…なんて情けない男なのだろう。全部自分の蒔いた種じゃないか。無理矢理彼女を襲ったのも、我慢ができなかったおれの愚かしさが招いたことじゃないか。
埒もない思考にますますやりきれなくなりながら酒瓶を纏め、ランドリーバッグに靴下を投げ込み、腐ったマリネをゴミ箱に棄てているとピーターが起きてきた。
「ょお、オハヨ。ありがてぇなア。おまえが女だったらなア…」
「シャワーを借りてもいいか。汗を流したい」
「いーよ。どーぞ。着替え出しとくな。あとで洗濯して返してくれりゃいいから」
「助かる。ありがとう」
「どーいたしまして。まアお前もさ、あんま思いつめるなよ。失恋男同士、また愚痴聞いてやるから」
「…ありがとう」
汗と一緒に、泥のように纏いつく未練を冷水で流す。ルーに絡みついたまま離れない思考を流し去りたい。忘れられたならどんなに楽になれるだろう。あいつのきらめきを、あいつの笑顔を、あいつの指が生み出す芸術を、女神のようにおれを支配し、天使のように啓示を垂れ、妖精のように跳ねまわるあいつを、忘れられたら、おれはどんなにか、…。
しかし、そんなことができるはずもないことは、おれが一番知っているのだ。




