第三幕『狼と天使のワルツ』第七場
「ほーら、帰るぞー。閉店だってよー」
ふらふらになりながらまたカウンターに突っ伏したセデュイールの背を揺らす。
店内に人気はなく、マスターもグラスを磨いて帰り支度をしている。
「かえりたくない…」
「えぇ? しょーがねーなもー…」
「あらヤダ、セディーちゃん家に泊まるぅ? 狭いけどここの近くだから! ねえそうしましょうよお! 慰めてあげちゃうわあ!」
日付を超えても元気なマスターを適当にあしらって俺はやつに肩を貸して店を出る。片手に楽器ケース、片手に俺より長身のセデュイールだ。これは明日の筋肉痛が予想される。何かしら奢ってもらわねえと割に合わない。明日の晩はこいつの驕りで飲みに行こう。よし決めた。
乾いた夜に呆れたような月がぽっかり浮かぶ中を、俺は千鳥足であいつを運んだ。誰が待つこともない、殺風景な我が家へと。
――セデュが帰ってこない。日付が変わろうというのにだ。
シャワーを浴びて濡れた髪をバスタオルで拭いながらボクはベッドに腰かける。セデュが帰ってきたら昨夜のつづきをしようって言えるように、ちゃんと準備してたのに。
マチウには勉強のために色々買ってきてもらった。閨房哲学とか悪徳の栄えとか、デカメロンとか。もっと実践的なハウトゥー本は、あるのかどうかわからないけどマチウはイヤがって買ってくれなかったのだ。
まだ拾い読みしただけだけど、とにかく知識だけは蓄えた。やり方もだいたいわかった。あとはセデュに言い出すだけ。初めてだって言ったらあいつがやる気なくすかもだから、それはまだ言えないけど。もう一回しようって言えば、あいつは応えてくれるはずだって、ボクは信じていた、んだけど。
…セデュは帰ってこない。
まさか、朝帰りとか、しないよな? え、これってなんだ、ボクがあいつを拒んだせいか? セックスを拒否するような恋人は要らないってこと? セデュを拒んだりしない、従順な女の子がセデュはタイプで、そういう子を見つけてしけこんでるってこと?
いやいや。そんなはずないな。百歩譲ってどこかにしけこんでるとしても、きっと新しい恋人とかじゃなくて、お金出してやらせてくれるお姉さんのところにでも行ったんだろ。男の人ってたまると相当苦しいらしいし、発散する必要があるらしいからな。
ボクがやらせてあげないから、他の人で発散してるんだ。それだけだ。セデュがボクから離れられるわけないんだから、新しい恋人なんかの心配はしなくていい。
…。……。
お金でお姉さんを買って発散したら、セデュはボクとはしてくれないのかな。
あーあー、なんでセデュを拒否しちゃったんだろう昨夜のボクは! ビビりすぎだろ、たかがセックスに! こんなのみんなやってることなのに! たしかにちょっと、昨夜のセデュは、いつもみたいに優しくなくて、強引で、男らしくて、かなりドキドキしちゃって、心臓が苦しくなるくらい、怖くて、…
思い出したらまたドキドキしてきた。なんか部屋があっつい。ボクは窓辺に立ってがたりと窓を開ける。涼しい夜気が首筋を冷やす。どこかの酔っ払いの鼻歌が微かに聞こえる。
ひとりの夜は寂しい。ボクは窓辺のデスクに頬杖ついて、セデュの帰りを待ち侘びた。
セデュを待っていたら夜が明けていた。ボクは寂しさを書き連ねた五線譜から顔を上げる。窓から街路樹の梢に舞い降りるホシムクドリが見え、その金属製の甲高い鳴き声が鼓膜を打つ。
…ほんとに朝帰りだ。ボクがいるっていうのに、外泊しやがった。セデュのバカ。たった一回拒否られたくらいで、浮気しやがった。…お金で買ったお姉さんが相手だって、やっぱり浮気だろうそれは! バカバカ、くそったれ、ボクをひとりにするなよ、寂しいのが嫌いなんだよボクは! ひとりで朝ごはんもお昼ごはんも夜ごはんも食べたくない! きみにおはようもおやすみも言えないなんて嫌だ!
…待っていたら、戻ってくるかな。荷物はあるし、このまま出ていくなんてことないよな。ここはセデュん家だし。
はあと重いため息を吐いて窓を閉める。ぶかぶかのセデュのパジャマをくんくん嗅いでみてもセデュの匂いは微塵もしない。寂しくって死にそうだ。なんとかしてくれよ。
――いっそ今日はオペラ座に行って、あいつがどこかにしけこむ前に捕まえてやろうかな。
ボクが埒もないことを考えていた時だった。朝の静けさを打ち破るように、客間の電話が鳴り響いた。
パジャマを脱ぎ捨てて、クローゼットからワンピースを引っ張り出す。菫色のそれを引っかけて靴を履き替え、鍵とスコアを掴んで部屋を飛び出す。エレベーターを待つのももどかしくボクは階段を一段飛ばしで駆け下り、郵便受けに鍵を落としてからアパルトマンを出た。
ここから6区にあるボクの家までは徒歩20分くらいか。早朝にタクシーの類も見当たらず、ボクはがらんとした道を駆け出す。薄青い道は水の中みたいにしんとして、人気がなくて、まるで別の世界に紛れ込んだみたいだ。
受話器から聞こえてくる姉さんの声は緊迫していた。父さんは危篤だと言う。昨夜、ボクの妊娠を報告されて、また容態が悪くなったのだそうだ。
ボクが吐いた嘘のせいで、皆が振り回されてる。父さんが死んじゃったらどうしよう。ボクのせいだ。幼い頃から、教師だった父さんがボクのピアノの先生だった。休日はボクにつきっきりで、朝から晩まで、技術を叩き込んでくれたんだ。ボクがコンクールに優勝できたのは父さんのおかげだ。父さんがいなかったら、ボクは今どうしていたか――
左岸に渡って、セーヌ川を横目にボクは走る。はあはあと息が切れて鼓動が早鐘を打つ。どうか間に合ってくれと願いながら、ボクは無意識に持ってきてしまった書きかけのスコアを握りしめて走る。曇り空に朝日はまだ射さない。




