第三幕『狼と天使のワルツ』第六場
誰よりも早く楽屋入りしたらしいセデュイールはオケ用に用意された控室に戻らず、客席に詰めているらしい。
楽日まであと2日、公演にして3公演、最後のスパートとシモンズ先生につきっきりでその指導を受けているのだろう。
リハの際ちらりと見たやつの顔はいつになく青褪めて思いつめていて、生真面目なあいつが行き詰っているらしいことを感じさせた。
鷹揚な友人である俺はやつを誘って息抜きさせてやるかと、今晩の飲みの相手を急遽変更してひとりほくそ笑む。
ルーちゃんとの顛末も、色々聞きたかったしちょうどいい。あの子がいない場所の方があいつも話しやすいってもんだろ。
ミラノ出身のプリマの金切り声(メイクが気に入らないとかでリハからずっと彼女は不機嫌だ)を聞き流しつつ、俺はトランペットを抱え直した。
公演が終わり、一通り挨拶して帰り支度する人の波で楽屋はごった返している。
ひとりぽつんと帰り支度もせずにソファに掛けているセデュイールに声をかけると、やつは虚ろな視線を持ち上げる。
「八方ふさがりって顔だなア。飲みに行かねえ? 今夜はお前の愚痴も聞いてやるよ」
楽器ケースを持ち上げながら聞くとセデュイールはぼんやりしたまま頷いて腰を上げる。珍しい。何かしらの抵抗を示されると思っていた俺は拍子抜けする。
「いつもの場所か」
「お、おう。何々? お前も色々話したいことあったとか?」
「…話したいことなど…」
口ごもりながら長い睫毛で瞬いてカバンにスコアを入れ、迷子の少年みたいな顔で俺を見上げる。随分弱っているみたいだ。こんなセデュイールは、俺は初めて見る。
いつも堂々として、学友に対しても悩みとか苦悶とかを見せたことのないやつなのにだ。
これはますます面白そうだ。一体やつの口から何が飛び出すのかと俺はワクワクしながら、セデュイールの背を押した。
「…おれは卑怯な偽善者だ。ろくでなしだ。自分で誓ったこともまもれない、人間のくずだ…」
カウンターに突っ伏したセデュイールは掠れた声で呻く。店に着いて1時間、やつにしては速いペースで甘ったるいカクテルを飲み干して、3杯目のアメリカン・レモネードが今やつのグラスを湿らせている。
「まア人間なんてそんなもんだよ。あんまり自分を責めるな、完璧でいられるヤツなんてそうそういるもんじゃない…」
「そうよお、セディーちゃん。あんたはそんなに可愛いんだから、それだけで価値があるってもんよお」
「マスターはちょっと黙ってて」
俺とセデュイールのやりとりに隙あらば入り込んでくる筋骨隆々のバーテンダーを牽制しつつ、俺はスコッチのグラスを傾ける。イイ感じに酔いが回って、高揚感が俺の口角を上げ、いい気分にする。セデュイールも俺みたいに、酔いに任せていい気分になりゃあいいのにと思って、俺は口を開けやつを励ます。
「シモンズ先生はお前を褒めてたよ。よくやってるって。指揮科でもトップの成績なのにぃ、慢心せず努力を怠らないってさ。なかなかできることじゃないって…」
「先生はおれを過大評価してる。おれにはそんな価値はない…」
「よわよわだなア。珍しい。いつもの自信はどーしたよ。お前は一日も早く独立して、世界中に名の知られた指揮者先生になるんだろォ? ルーちゃんだってお前に期待してるよ、きっと――」
「ダメだ。もう無理なんだ。おれはルーを傷つけてしまった…」
「へえ? 喧嘩したのか? でもそのほうが健全じゃねえ? 対等な関係じゃなけりゃ、喧嘩とかもないわけだしぃ…」
「けんかなんかじゃない。そんなマトモなことでは…」
「マトモじゃないって? それってもしかしてアレか? 彼女が嫌がるようなこと強要したりとか?」
「………」
「へえー! お前がねえ! ひとはみかけによらないもんだ。さすがのお前でも、夜は紳士でいられなかったかア!」
高揚感の赴くままゲラゲラ笑いこける俺に対して、セデュイールは俯いたまま顔を上げない。この世の終わりってな風に、顔を覆ったままぴくりともしない。もう何も目に映したくないってな風だ。おもしろっ。
「まあそしたら、誠心誠意あやまるんだな。女の子ってのは、下手に出てやりゃ機嫌なおすよ。あの子まだ18だろ? なんか服とか買ってやって、チヤホヤしてやりゃすぐにケロッと…」
「やだ、ピーターちゃん、最低。女性蔑視も甚だしいわよ」
「おれは最低だ。愚かで、未熟で、無神経なでくのぼうだ。あいつはまだ18なのに。あいつの身体はあんなに細くて、華奢で、折れそうなくらい、かよわくて…」
なんかのろけが始まってないか? マスターに批難されて膨れていた俺は呆れて隣のセデュイールを見遣る。
コイツ、よわよわのフリして俺にのろけを聞かせようって腹か。畜生め。
「そーんなかよわいルーちゃんに、ナニしたんだよーお前は。寝てるルーちゃんを無理矢理襲ったとか? 入浴中のルーちゃんを無理矢理襲ったとか? 着替え中のルーちゃんを無理矢理襲ったとか? ひえーこええ。ケダモノだなあ全く」
俺の言葉に打ちのめされたみたいにセデュイールは黙り込みぎゅっと拳を握りしめる。こいつホントに何やったんだ。まさか俺の言ったことぜんぶ? 所詮コイツも男だったってことか。好きな子と一つ屋根の下で暮らして、何もないなんてそんなわけないもんな。むしろほっとして、俺は慰めるような言葉を重ねる。
「――まあ、お前が女の子に興味があるって、わかってよかったよ。学生時代なんて、恋人も作らねえで音楽一辺倒で、男が好きなのか音楽にしか興奮しない変態なのかと思ってたからな!」
「……おれは変態だ……」
「はいはい、わかったって。あんまりルーちゃんが怒ってるようなら、俺から話してやろうか? 女の子を宥めた経験はお前より豊富だからな俺は!」
「無駄だ」
「俺を見縊るなよお!? お前より遥かに大勢と付き合ってきてるんだからな俺は!?」
思わずいきり立つ俺に、やっとセデュイールの視線があげられる。茫洋とした瞳は涙の膜が張ったように潤んでいる。俺がゲイだったら思わずぐっときそうな、頼りなさげな風情である。ていうか危なっかしいなコイツ。簡単に押し倒されて、思うがままにされそうだぞ。
「…ルーはきっと出て行ってしまった。おれに愛想を尽かして…」
「……」
マジか。それでこんなにべこべこに凹んでいたのかコイツは。要するに失恋したってわけだ。数日前の俺みたいに。
「…そっか。そういうこともあるよな…」
「……」
「元気出せって。ホラ、女なんて他にいくらでもいるだろ!? なにもルーちゃんに拘らなくってもさ、…ハープのサヴィーヌとか、絶対お前に気があるって。今日もお前に見惚れてたの、気づいてたか? なんなら俺が間に入って取り持ってやっても、」
「いい」
「え?」
「要らない。ルーじゃないなら誰も欲しくない」
「………」
重症だ。これは立ち直るまでに、相当時間がかかりそうだ。
そんなに惚れ込んでるならなおさら、なんで愛想尽かされるようなことしちゃうかな。…男ってやつは全く、どうしようもねえな!
「飲めよ。ほら。飲んで忘れっちまおうぜ。マスター。こいつにアメリカン・レモネードもう一杯」
「ハイハイ、待っててねー」
セデュイールは絶望で塗りつぶされたみたいな琥珀色の瞳を伏せて杯を重ね、酔い潰れるまで俺と飲み明かした。




