第三幕『狼と天使のワルツ』第五場
浴室からシャワーの音がしている。ボクはパジャマの前を掻き合わせたまま、ぼんやりとそれを聞く。
心臓がまだドキドキして、口から飛び出しそうなくらい。いきなり雄モードになってがっついてきたセデュに、ボクはひたすらビックリして、ついつい彼を拒んでしまった。
こっちは初めてなんだから、仕方ないだろ? 仕方ないよね? ていうかあいつもあいつだよ。今まで全然そんな素振り見せなくて、こっちがさんざん誘っても「成人したら」の一点張りだったくせに、いきなりあんな…
…あいつ、ちゃんとボクで興奮するのか。そっか。てっきりあまりにボクを神聖視しすぎて、そういう対象にはなりえないのかと思ってたぜ。…
やばい、今更恥ずかしくなってきた。それと同時に、へたれな自分に嫌気が差す。
せっかくセデュとセックスできるチャンスだったのに! ビビッて拒絶するとか、あんまりだろボク!!
…まあいい、ちゃんと仕切り直して、あいつが風呂から出て来たらつづきを…つづき、できるかな? いきなりぶっつけ本番のコンサートなんてボクだってさすがにやったことないもんな。ちゃあんと前もって練習しておかないと、自信もって挑むことなんてできないに決まってる。ボクがいかに天才であろうともだ。
…今晩はちょっと保留にしてもらって、練習相手を探さなきゃ、かな。セデュにヘタクソだって思われたくないし。なーんだこんなもんかつまんね、とか思われたくないし!
なにしろセデュにはボクは経験豊富と吹いてしまっているので。今更後戻りはできないのだった。
朝、目が醒めるとセデュはもういなかった。昨夜悶々としたまま色々考えていたせいでなかなか眠りに就けなくて、セデュは腫れ物を扱うようにボクの前には姿を見せず、明け方にやっと寝付いて――起きたらもう真昼だ。ダイニングに向かうと朝ごはんの生ハムとチーズのトマト入りバゲットサンドウィッチと切り分けたオレンジとカフェオレが、ラップのかかった大皿に用意されていた。
寝ぐせのついたままの頭で席に就いたボクはオレンジに齧り付きながら壁に掛けられた時計を見る。11時半、いつもならお昼をセデュが作ってくれて、一緒に食べてる時間だ。
…昨夜のことがさすがに気まずくて、あいつ早めに出たのかな。まあいいや、それならそれで、好都合だ。
ボクは果汁のついた指を舐めながら客間に向かい、受話器を取り上げる。
ボクのマネージャーを呼び出すためだ。気軽に連絡できる同性の友人のひとりもいないボクは、他に頼れる相手が見つからなかった。
「ボンジュール、マドモアゼル・リーヴェ。そこのマルシェでいろいろ買ってきましたよ。ワインと果物とベーコンとバゲットと…」
「やあやあ、よく来てくれたねえ! 歓迎するよ! ここセデュんちだけど!」
両手に紙袋を抱えたマチウを迎え入れ、ダイニングに案内する。どさりと紙袋をテーブルに置いたマチウは重荷からやっと解放され、ふうとため息を吐いた。
「オペラ座はあと2日で千秋楽ですか。ムッシュ・レヴォネもお忙しいのでしょうねえ」
「うん。そーだとおもうよ。今日セデュがいないのは、他の理由かもだけど」
「何かございましたか?」
「うーん…」
珍しく歯切れの悪いボクにマチウの不思議そうな視線が注がれる。どこまで話したもんかな。プライヴェートなことだから、まあオブラートに包んで、遠回しに…
「セックスの練習台を探してるんだけどさ、君、相手になってくれない?」
やっぱり回りくどいのは無理だった。単刀直入に言うと、マチウはのけぞってよろよろと椅子に手を突いてやっと身体を支える。
「な、な、な、なにを!? マドモアゼル・リーヴェ、正気ですか!?」
「もちろん正気だともさ。ぶっつけ本番で舞台に上がるほどボクは無鉄砲じゃない。セデュにはボクは経験豊富ってことにしてるからー、それなりに経験を積んでおかないとと思って…」
「だからと言ってなぜ私に!? 私は既婚者ですが!?」
「知ってるよお。でも他に頼れる人いなくてさー。ねっ! お願い!」
「嫌ですが!! ムッシュ・ヴィオレにでも頼めばよろしいのでは!?」
「ボクに本気にならない相手じゃないと意味ないんだって! ただの練習なんだから! 最後までするつもりはないよ? あくまで寸止めで、手順? っていうか、やり方がわかればそれでいいんだから…」
「寸止めだろうとなんだろうと嫌なものは嫌です!! 妻に知られたら私は殺されてしまいます!!」
「うるさいなーもー。はやく脱げよー。おらおら」
「嫌あああ!! やめてええ!! 強姦魔がいるううう!!」
無理矢理マチウのスーツを引っぺがそうとするボクと、抵抗を続けるマチウの攻防戦が、狭いダイニングで10分程度つづいた。
根負けしたのは体力のないボクのほうである。ハアハアと息を切らしながらボクは思い通りになってくれないマチウに地団駄を踏んだ。
「なんだよお、ボクがこんなに頼んでるのにっ! なんで聞いてくれないんだよっ!」
「誰もがあなたの言うなりになると思ったら大間違いですよマドモアゼル・リーヴェ! 私は18の子供に手は出しません!」
「ボクは子供じゃない! おっぱいだって膨らんできてるもん!」
「大人ならそんな無茶な要求はいたしません! あなたは私の立場について考えてみたことがおありで!?」
マチウまで、セデュみたいなことを言って怒ってる。普段は気が弱くて、腰が低くて、頼りなさげなヤツなのに。
「…ボクが悪かったよ。もう君には頼まない…」
不貞腐れてボクが言うと、やっとほっとしたようにマチウは強張っていた表情を緩める。
「そうしてください」
「じゃあもう誰でもいいや。君、18のコドモと寝てくれる相手探してきて紹介して。寸止めでもいいよって人。業界人でもマネージャー仲間でも誰でもいいよ」
腹立ちまぎれのボクの言葉に、マチウはがくりと肩を落とした。
「…何もわかっておられないではないですか。あなたは自分の立場についてもよくご再考いただいて…」
「だって練習しないと不安なんだもん! セデュに失望されたくないし! 初めてだなんて知られたくないし!」
「…なぜですか?」
「え?」
紙袋からボクのための食糧をひとつずつ取り出しながらマチウが尋ねる。取り出し終わった紙袋は丁寧に畳んで、自分のカバンに仕舞いこむ。
「なぜ初めてだと知られるのが嫌なのです? ムッシュ・レヴォネはそんなことを気にされる方なのですか?」
「…。…だって、男の人って、面倒なのは嫌なんだろ。セックスの相手は、上手な方が、嬉しいだろ」
「人によりますよ」
「嘘だ。絶対嘘だ。ヘタクソな演奏なんか聴くに堪えないもん。耳塞いで逃げ出したくなるもん。セデュだってきっと…」
「性行為はコンサートとは違いますよ。それは通常、密室で、二人きりで行われるものです。観衆などおりません」
「……」
「練習が必要なら、そう正直にムッシュ・レヴォネにお話しになることです。いきなり本番は怖いからと言えば、きっと聞いてくださいますよ」
「……ほんと?」
「あなたのムッシュ・レヴォネは、そこで怒り出すような方ですか?」
「前のセデュは、違ったけど…今は、わかんない」
昨夜のセデュを思い出す。追い詰められてるみたいに、切羽詰まった、性急な彼の手指を思い出す。あのときセデュは怒っていた。ボクがあんまり彼を揶揄うから、いい加減にしろって感じで。
セデュだって人間だから、ちゃんと怒るんだ。…ボクが嘘ついてたって知ったら、彼はもっと怒るかもしれない。全部ボクの、自業自得だけど。
「こわいなア、怒られたくないよー」
「…まあそれでも、ムッシュ・レヴォネは聞いてくださいますよ」
「なにを根拠に?」
「…見ていれば分かります」
マチウはふっと微笑んでプラムを取り上げ、器用な手つきで皮を剥く。
「あの方はマドモアゼル・リーヴェを、目の中に入れても痛くないくらい、愛しておられますからね」
マチウはそう言って、切り分けたプラムの欠片を、ボクに咥えさせた。




