第三幕『狼と天使のワルツ』第四場
公演が終わり、飲みの席にも参加せずおれは直帰する。アパルトマンにはルーが待っている。片付けの苦手なルーはダイニングのテーブルに食べかけのサラダやフィッシュアンドチップスをそのままにして、先に寝室に引き上げたようだ。半分ほど中身の残っているワインを片付け、テーブルに落ちた食べかすを拭き取り、シャワーの前に寝室を覗く。ベッドの上に丸まっているシーツの影が見える。
…体調が悪いのだろうか。妊娠のせいか? 悪阻がきついのだろうか。
「ルー、帰ったよ。…大丈夫か?」
「んぁ、ウン。ちょっと寝てた…」
「水でも飲むか? 薬は…飲まない方がいいのだろうか、」
「白ワイン残ってたよね? ちょっとのみたいなあ、もってきてー」
「酒もよくないんじゃないか」
「なんで?」
「……」
言葉に詰まるおれの態度に特に留意するでなく、むくりと起き上がったルーは欠伸をしながら身体を伸ばす。今日は一日夜着でいたようだ。食糧は、マチウにでも買ってこさせたのだろう。
――ルーは、もしかしたら、マチウとも、関係が、――
苦いものを飲み下しおれは立ちあがる。なんでもない顔をしなければならない。ルーに察されてはならない。ルーがおれに言わないということは、まだ彼女はおれに知られたくないということなのだろうから。
「水を持ってくる。お前は寝ていなさい。他にほしいものは?」
「えー。そーだなあ。きみのキスとか?」
「……」
「キスならいいんだろ? セックスはダメでもさ、…」
口を尖らせベッドの桟に寄りかかりながらルーが言う。そのしどけない姿態と、男物の夜着から浮かび上がる微かな膨らみから目を逸らし、瞼を閉じて額にキスする。
愛し合う恋人同士のように。
――子供の父親は、ひょっとして、マチウだろうか。既婚者である彼の子だからこそ、ルーは秘しておきたいのではないか? そう考えると辻褄が合う。
…馬鹿なことをまた考えている。彼女の姉には気にしないなどと言っておいて、受け入れられると啖呵を切っておいて、これだ。ほとほと自分が嫌になる。どうしようもないことを考えるのはよせ。時間の無駄だ。
彼女の子供の父親が誰であっても、おれには何もできることはないのだ。…
「セデュ、…どうしたの」
くい、とおれのジャケットを掴んだルーの声がする。
気遣わしげな、優しい声だ。いつもの、軽口じみた調子じゃない。人を揶揄うような、飄々とした口調じゃない。
内側から刺し貫かれるように胸が痛い。汚れた血を吐くようにおまえに詰問できたなら、どんなにかおれは楽になれるだろう。おれのなかの醜いものをぶつけて、それでおまえが何か感じてくれたら、…おまえがおれのことで感情を揺さぶってくれたなら、おれはどんなに、…
「――泣きそうな顔、してる」
真摯におれを見つめて、ルーはそう言って、息をひそめて、おれに寄り添う。
「何かあった? 話してよ。音楽のことなら、ぼくも力になれるとおもう。音楽じゃないことは…あんまり力になれないかもだけど。でも話したら、ちょっとはらくになるでしょう? せっかく一緒にいるんだからさ、ぼくにも共有させてよ、きみのなやみとか、くるしみ、とか…」
「…おれに、優しくしないでくれ」
「…え?」
「勘違いしてしまう。おまえの意図を、おまえの厚意を、…」
「……」
勘違い、と清かな声が呟いて、ジャケットを掴んでいた手が離れていく。
ぽたりとシーツに落ちた白い手は、掌を上に向け、何かを掴みかけた形のままで固まっている。
「勘違いって、何」
「……」
「まだきみはぼくのこと、信じてくれてないの? きみと一緒にいるために、傍にいるために、ぼくなりに、結構頑張ってるつもり、なんだけど」
白い手がぎゅっと握り締められ、シーツに突かれたそれをばね仕掛けのようにして、ルーが飛びついてくる。
どしんと軽い身体がぶつかり、首に腕を回したルーの吐息が耳元を掠める。
「――わかんないならもう、身体でわからせるしかないか。君はオクテだからー、ぼくが誘ってやるしかないんだもんな、いやになっちゃうよ。セックスはしないんだっけ? じゃああれだ、手で触ってあげよっか? ぼくの指で、天国に逝かせてあげるよ♡ そしたら悩みなんか飛んでっちゃうでしょ? なーんて…」
「…それもおまえの、人生経験のためか」
「え?」
「おまえはおれになにを求めてるんだ。恋人ごっこか。それとも、家族ごっこがしたいのか? おまえにとっておれはなんなんだ、おれはおまえの父親じゃない、おれは男だ、おまえが欲しくて欲しくてたまらない男なんだ、わかっているのか、考えてみたことがあるか? いつも悪戯に人を煽って、揶揄って、ふざけて――」
がばりと腕を取って捥ぎ離す。カーテンが開いたままの窓から射す月光がルーの頬を濡らしている。目を見開いた彼女はおれの言葉を黙って聞いている。もうやめろ、それ以上彼女を責めるのは辞めろと頭の中に警鐘が鳴り響く。おれが勝手に好きになって、彼女に纏わりついて、望んで振り回されてきたのだろう。責任を彼女に押し付けるのはお門違いだ。利用されてもいいと思っていたのは自分だろう。彼女のためなら、彼女の曲の題材になれるのなら、むしろ光栄だと、おれは心からそう思っていたはずだ。彼女の心が手に入れられなくとも、傍にいられるだけで満足だと。…彼女をただ、大切にしたいのだと。
「抱かれたいと言ったな、望み通りにしてやろうか? それでおまえは存分に比べればいい。試してみなければわからないからな、そうだろうとも。楽器を使い捨てるようにして、好みのものを探せばいい。おまえは人にも物にも執着しない。ヴァイオリンにもピアノにも――」
べらべらと並べ立てながらおれはルーを引き倒す。ギシリとベッドが軋み、呆然とした彼女の瞳が虚ろにおれを映している。抵抗はない。不自然なほどに。
無防備に曝け出された首筋に吸い付き、夜着の裾から手を入れる。柔らかな肌は水を浴びてきたかのように冷たい。氷のようだと思って、おれはまだどうしようもなくなる。
ルーが欲しい。ずっと欲しかった。いつだっておまえを抱き締めたかった。この胸に閉じ込めて、深く繋がりたかった。何も考えられなくなるくらいに、ただおまえだけを見つめて、おまえの熱だけを感じたかった。他にはなにもいらない。おまえがこれを許してくれるなら、なんだって差し出す。おれのものに決してならないおまえを、子供で、未成熟で、おれに恋愛感情など抱かないおまえを、おれは欲しくて、気が狂いそうなほどで、――
「……だ、」
下着をつけていない胸元に差し込んだ手を阻むものがある。かたかたと震えているのはルーの身体だ。
「いや、だ、やめてっ…」
明確な拒否の言葉が、震える唇から零れる。涙の膜を張ったような濡れた碧の瞳がおれを見上げている。恐ろしい獣を前に、怯えているように。おれは冷水を浴びせられたようになって、夜着から手を引き抜く。
ルーはシーツを掻き合わせ、身体を隠すようにそれに包まり、ずりずりと後退る。
どしんと背中がベッドの桟にぶつかるまで後退って、逃げ場をなくしたルーは縮こまって震えている。
…おれがルーをそんなふうにしたのだ。
「あ、…すまない、おれは、…何てことを、…」
ベッドから跳ねるように身を起こす。先ほどまでの熱狂が嘘のように、身体は冷え切り、嫌な汗が背筋を流れ落ちる。
…やってしまった。ルーに乱暴を働いてしまった。決して傷つけたくないと思っていたのに。大切にしたいと思っていた、はずなのに。
――やはりルーはおれを男としては見られないのだ。だからこんなにも取り乱しているのだ。さんざん今まで誘いをかけていたのも、おれが反撃などできないと思っていたからなのだろう。
目の前に帳が下ろされたように、すべてが暗く淀んで見える。おれはふらふらと立ちあがる。
「悪かった、こんなことはもう二度と、…」
最後まで言い切ることもできず、おれは浴室に駆け込んだ。
コックを捻り、猛烈な勢いのシャワーを頭から被る。やるせなさに、鉛を飲み込んだように心臓が痛む。湧き上がる怒りは、自分自身に対してのものだ。
もうおしまいだ。自分の手で終わらせてしまった。ルーはきっと出ていくだろう。おれの本性がわかって失望したであろう彼女は、このままここで暮らすことを選ぶはずがない。
おれが彼女に、選ばれるはずなど、なかったのだ。
おれは顔を覆って、声を押し殺し、浴室に頽れる。嗚咽は流水の音に紛れていった。




