第三幕『狼と天使のワルツ』第三場
「お久しぶりね、セデュイール」
「…やあ、こんにちは、マリアンヌ。珍しいね、君がわざわざ…」
「妹の件で話があって来たの。お時間よろしくて?」
「今、リハが終わったところだ。1時間くらいなら…」
「少し出ましょうか。ここじゃ話しづらいわ」
スタッフに外出を伝えてから、ルーと姉妹とは思えないほどきっちりと一分の隙もなくネイビーのスーツを纏ったマリアンヌをエスコートする。ゴシック式の円柱の並ぶホールを抜け裏口から出て、近くのカフェに向かう。カフェのガラス扉を開け彼女を先に通し、椅子を引いて彼女を掛けさせてからおれも席に就く。
「メルシ、」
と呟いた彼女はテーブルで掌を組み合わせ、メニューを差し出すおれに
「ホットコーヒー、ブラックで」
と一言告げてからきっと顎を上げて唇を引き結んだ。
「話というのは、」
促すおれに、妹のものとよく似た、桜色の薄い唇が開かれる。
「ルーと別れてほしいの」
「それはできない」
単刀直入な言葉に、即座に返す。条件反射のようなものだ。もとより、おれにルーと別れる意志は微塵もない。
「あなたの立場が悪くなると言っても?」
「何があってもだ」
「……」
マリアンヌは眉を寄せて黙り込み、言葉を探しているようだ。おれを懐柔するための言葉を、だろうか。
マリアンヌとおれは、ルーに出会うより以前に知り合っている。
ルーよりも1年先に、4歳年下の彼女とおれは、ピアノコンクールで出会っていたのだ。
言葉を交わしたのは、ルーがともにコンクールに出るようになった、翌年からだが。
彼女は繊細で、律儀で、生真面目な演奏をするひとだった。大胆で破天荒で、羽の生えた妖精のようなルーとは、真逆なような。
おれは彼女の演奏には好感を持っていたし、彼女自身の、実直な人柄も好ましいと思っていた。ルーとおれとの付き合いを彼女が反対するのも、生真面目な彼女からしてみたら、当然のことだと思う。まだルーは未成年で、他の男とのスキャンダル記事が出たばかりで、おれは彼女の6歳も年上で、未だ確たる収入もなくて。おれが彼女の立場だったら、まず間違いなく、同じようにしただろう。
だから彼女が父親に操られているとは思わない。彼女は彼女自身の意思で、おれたちに反対しているのだろう。
だからといって、唯々諾々と従うつもりはないが。
「あなたに引いて頂けないようなら、こちらとしても考えがあります」
「君の懸念も当然だと思うが、おれは真剣にルーと付き合っているんだ。決して遊びなどではない。あいつが成人したら、結婚するつもりで――」
「18歳のあの子に簡単に手を出して、よくも平然とそんなことが言えますね」
「……待ってくれ、おれが何をしたと?」
「あの子は妊娠しているそうよ。あなたの子を。あの子はまだ未成年なのに。有名になって、名前が知られて、これからって時なのに――」
「――」
がつんと殴られたような衝撃におれは何も言えなくなる。
妊娠? おれの子? なんのはなしだ? ――ルーが妊娠しているって?
「…おれの子じゃ、ない。おれはまだ、何も…」
「……じゃあマルセルの子供ってこと? それとも…ああ、頭が痛くなってきたわ、なんて子なの…」
ため息交じりに呟くマリアンヌの声が遠い。
…ルーがおれにさんざん誘いをかけていたのは、そういうことだったのか。なるほど。ルーは不本意だったのだろう。相手に不満があったのだろう。…子どもの父親に相応しいと、ルーがおれを選んでくれたのなら、それは喜ばしいことじゃないか? …。
パパ、とおれを呼ぶ、ルーの声が蘇る。恋愛感情など、はじめからなかった。期待したおれが愚かだった。それだけのことだ。あいつにとって、おれは所詮、――
「…手を出さなくてよかった。あいつを汚してしまう前に、気づけて、良かった…」
「――はやく別れるべきよ。あの子はあなたを嵌めようとしてるんじゃない。素知らぬ顔で、あなたに責任を押し付けようとしているんじゃない。信じられないわ。最低よ。あんな子が妹だなんて、恥ずかしいわ…」
「……」
マリアンヌの、ルーを責める声がする。水の膜の向こうにいるように、滲んで彼女の輪郭がぼやける。
「別れはしない。あいつが望まない限りは」
「あの子はあなたを利用しようとしてるのよ。それでもいいっていうの?」
「最初から、…おれがルーに焦がれるようには、あいつがおれを想ってくれないことは、知っていた。わかっていた。あいつは自由で、何者にも捕らわれない。そういうあいつに、おれは惹かれたんだ。どうしようもなく…」
「……」
「別れないよ。あいつが許してくれる限り、いつまでもおれは傍にいる。あいつの子供も、あいつの一部だ。きっと愛せる…」
「そんなことを許したら、…子供を置いて、ひとりで出ていくかもしれないわよ。あの子は気まぐれで、手の付けられないお転婆だもの」
「それでも、いいんだ。今が、おれにとっては、奇跡のようなものなのだから」
いつかルーには本当に愛する人が見つかるかもしれない。そうしたらあいつは出ていくだろう。おれは過去になり、思い出の一部になり、やがて忘れ去られるだろう。
――それでもいい。おれは決めた。おれはあいつから離れない。あいつが、愛する人を見つけて、出ていくその日まで、決して。
ルーを失う日々を思って死にたくなる自分から目を逸らして、おれはそう心に誓った。




