第三幕『狼と天使のワルツ』第二場
「話し合いはできた?」
昨日と同じ時刻、同じ詰問を抱えて姉さんはやってくる。セデュはいつも通りオペラ座だ。今日はまた見習いに戻って、先生について勉強中なんだろう。
昨夜のちょっとしたもめごと(?)が尾を引いて、ボクはセデュとうまく話せないまま彼を送り出した。昨夜のドレスはセデュが他の洗濯物と一緒に、クリーニングに出してくれたらしい。
洗濯されたせいでセデュのにおいの消えちゃったパジャマを着て(セデュが新しいボクのパジャマを買ってきてくれたけどボクは断固としてセデュのパジャマを横領し続けている)、髪も梳かさず食卓に就くボクを気遣わし気に眺めて、でもセデュは昨夜のことは何も言わなかった。そしてボクも。
せっかくの最高の夜の余韻を、ボクは自分でだいなしにしちゃったってわけだ。はあ、嫌になる。
そして、セデュの去った午後の、姉さんの訪問である。
きっちりと頭には櫛を入れ皺ひとつないシャツとジャケットを纏い、どこもかしこも清潔に整えられた姉さんの佇まいは、どことなくセデュに似てる。午後になってもパジャマのままのだらしないボク(ちょっと二日酔い)とは雲泥の差である。
「父さんの具合はどう…」
「相変わらずね。あなたの帰りを待ち侘びているわ」
セデュのキッチンを漁ってグラスに水を入れつつ、ボクは溜息を吐く。父さんの容態は気になる。だけどボクはもう決めているんだ。今日はあのことを、姉さんに伝えるんだ。
…ボクはセデュと一緒にいるためなら、手段を選ばないんだぞう。
「ボクは家には帰らないよ」
「そう。あなたはそういう考えなの。セデュイールが訴えられてもいいと、」
「セデュは訴えさせない。ボクのこどもの、パパになるひとなんだから」
姉さんが目を見開く。ボクは唇を湿らせて、効果を確かめるように間をおいてから、ゆっくりつづけた。
「ボクは妊娠してる。セデュの子だ。だからマルセルとは、結婚できない」
「あなた、…嘘でしょう」
「嘘じゃないよ。生理もしばらくきてないし」
「医者に診せたわけではないのね?」
「診せた診せた! もうね、ばっちり!」
「それが本当なら、時期が合わないわ。本当は誰の子なの。マルセル?」
「なんでそうなるんだよ! ボクはマルセルとはやってない! セデュとしかやってない!」
ほんとはセデュとも誰ともやってないしお腹にコドモもいないけど、ボクは堂々言い張る。姉さんの驚愕に見開かれていた目が、一転、冷ややかなものに変わる。
「未成年淫行確定ね。とうとう自分で白状したわね」
「な、…卑怯だぞ、そんな、言質とるみたいな、…」
「このことは父さんに伝えるわ。子どもの父親が誰であれ…あなたの今後には影響するでしょうから。マルセルに伝えるかどうかは、父さんに任せるけど」
「いーよもう、好きにしやがれ! ボクは帰らないったら帰らないんだからな!」
ボクはそう喚いて、姉さんを追い返した。
これに懲りて、もう父さんもボクを諦めてくれたら、いいんだけど…。
セックスレスの恋人は長続きしない、と言ったのはおれの友人だ。
女は隠し事が上手い、セックスに不満があると簡単に浮気される、と言ったのも。
おれはそれを一笑に付すこともできず、ただの、ルーを知らない男の憶測に過ぎないと頭の隅に追い遣ったのだ。
ルーはまだ18で、精神が未成熟で、おれに恋愛感情を抱いているのかどうかもわからない少女だ。だからおれは、あいつの心がもう少し成長するまで、あいつがおれに恋愛感情を抱いてくれたとわかるまで、…最悪、それらがなかったとしても成人するまでは、手を出すまいと自分に誓った。
たとえルーがマルセルと、他の男と経験していようがそんなことはどうでもいい。そう思っていた。
そう、思っていたはずだ。
「どうしたぁ? 色男。眉間の皺がマリアナ海溝じみてるぜ」
当の友人、トランペット奏者のピーターにそう揶揄われる。オペラ座の裏手、リハが終わったばかりの控室でのことだ。
おれはスコアに屈みこみ、雑念を振り払おうと、勉強に集中しようと念じて、五線譜を辿って、書き込まれた先生の指導を思い出して、思い出して、…
「ボクはとっくに経験済みだよ」
「マルセルとも、他の人とも寝たよ」
「いっぱい抱かれたよ。気持ちいいこと大好きだもん。これも人生経験じゃない? セックスがボクの音楽を豊かにしてくれる、きみの大好きな、ボクの芸術を高めてくれるんだ。うれしいでしょ? 抱かれた人の数だけ、たくさんの曲が――」
違う、そんなことルーは言ってない。おれの妄想だ。おれの益体もない、歪んだ被害妄想だ。
…そうだろうか。ルーは子供で、快楽に弱くて、誘われたら、相手が誰であってもついていってしまうような、危なっかしいところがあって、…
ルーは一体何人と寝たんだ。マルセルとは何回くらい? あの写真を撮られた時も、その前後にも、あいつとの関係は常態化していたのじゃないか?
…だからどうした。そんなことを愚痴って何になる。ルーの生き方に口出しするな。あいつが決めたことなら、おれに何ができる、あいつの芸術を、跪いて享受するだけのおれに、一体何が、…
がたりと立ちあがる。駄目だ、どうしても頭の中から鬱陶しい妄念が去ってくれない。
「顔を洗ってくる」
「お、おう、お疲れ…」
ピーターに見送られ、楽屋を出る。化粧室に向かう途中で、スタッフが小走りに駆け寄って来た。
「レヴォネさん、お客様です。リーヴェさんと名乗る方が――」
おれはぎくりと立ち止まる。…ルーが、一体どうしたのだろう。まさか別れ話だろうか。あいつを抱かないおれに失望して? 満足させてくれる男のもとに、…マルセルのもとに戻ると、言われるのだろうか。あいつが今までおれの傍にいてくれたのは、ただ、毛色が珍しかったというだけなのではないか? あいつに手を出さないおれが、珍しくて、興味をもったというだけで、…3年もの間、待たせるというおれに、嫌気が差したのでは? …
ドクドクと鼓動が煩い。嫌な汗が滲む。拳を作ってそれで心を指揮するように、おれは緊張を蹴散らし待ち人のところに向かった。
――そこで待っていたのは、ルーではなかった。
彼女の姉の、マリアンヌだった。




