第二幕『月影に夜風の匂い』第十七場
待ち合わせの時間に、10分ほど遅れてルーは到着した。目の醒めるようなスカイブルーのドレスにダイヤモンドのアクセサリーと、今からパーティーに出向いてもよいような豪奢かつ気品ある装いに反して、急いで駆けてきたようにはあはあと息を切らしている。
ブロンドは整う暇もなかったかのように背に流れ、ゆるみのある襟元の露出を隠している。
「…大丈夫か。何かあったのか?」
「ちょ、っと、忙しくって、…はあ、もうだいじょうぶ。ごめんごめん、遅刻した」
「お前が無事ならいいのだが…」
チケットを渡すと一転、澄んだ瞳を輝かせて飛び跳ねる。
「わあ、やった! 君の指揮者としての初舞台だね、すっごく愉しみ!」
「…主役は演者だ。オケは添え物に過ぎないが」
「そんなことないよー、音楽って一番重要だもの。お客さんの気持ちを揺さぶって、感動させたり、悲しませたり、喜ばせたりするんだ。君の指揮でね!」
にこにこと屈託のない顔で笑う。ルーの笑顔は眩い日の光のようで直視できず、おれは俯いて謝意を示した。
「…ありがとう。お前の期待に応えられるよう、務める」
「うん、頑張って。徹夜して勉強した成果を見せちゃえ!」
ひらひらと手を振ってルーは客席に向かう。おれはその姿が扉の陰に消えるまで見送ってから、オケの控室に戻った。
客席に就くと、この2時間ちょっとの疲労が肩にのしかかる。
桟敷席からぼんやり見下ろす舞台はまだ赤ビロードの緞帳が降りていて、オーケストラボックスには譜面台や椅子などがごちゃごちゃ置いてあって、無人だ。開店前のカフェみたい。
カフェと言えば、ボクは結局ちゃんとした夕飯を食べる暇もなく、行きずりのカフェでシュークリームとコーヒーを頂いただけだったのだ。演奏中に腹がくうくう鳴ったらどうしよ。桟敷席には二脚椅子があるので、相席になる人がいるはずだ。…ちょっと椅子を持ち上げて、ボクの腹の音が邪魔しないように若干ずらす。まあ幕が上がってしまえば、ボクは舞台に夢中になって、腹の虫のことなんか忘れちゃうだろうけど。
上演開始から数分前、ばらばらとオーケストラボックスに演奏者が集まり始め、音合わせなんかが始まるころ。桟敷席の後方扉が開いて、ボクの相席の人が入ってくる。
首を回してちらりと窺うと、それはセデュの先生だった。
もともとの、このオケの指揮者の、スペンサー・シモンズ氏だ。
ボクはがたんと腰を浮かせて、先生にお辞儀する。
「このたびは、お招きありがとうございました。セデュに、このような機会を与えてくださって、…感謝いたします」
シモンズ氏は鷹揚に頷いて、ボクに掛けるよう促す。
「また会えて嬉しいよ、マドモワゼル。今夜は楽しんでいってくれたまえ」
「はい! 先生は、お身体の具合はよろしいのですか?」
「ウン。まあ嘘も方便というかね、」
「嘘?」
「…レヴォネ君は僕の教え子の中でもとりわけ熱心な生徒でね。才能もある。勘もいい。人柄は…ちょっと頑固で融通が利かないこともあるが、情熱的で懸命だ。そろそろ彼を、お披露目する頃合いかと思ってね。…」
「……」
「彼はきっと成功するよ。僕など追い抜いて――世界に名の知られる指揮者になる。今日はその、栄光の第一歩というわけだ」
「…ありがとうございます」
「うん?」
「セデュを、信じてくれて」
水の膜を張ったような柔らかなコーヒーブラウンの瞳が細められ、柔和な口元が綻ぶ。
セデュの先生の老紳士はそうして、オーケストラボックスに姿を現したセデュに、惜しみない拍手を送った。
幕が下りる。割れんばかりの拍手の渦の中でボクは高鳴る胸を抑えて、やっと呼吸していた。オーケストラボックスのセデュは、凛と背筋を伸ばして、けれどスマートというより、死に物狂いの鋭い眼光、漲る気迫、飛び散る汗、ヴァイオリンの弦のようにぎりぎりに張り詰めた雰囲気、と、まるであの頃を思わせるような姿だった。
――コンクールで、ボクに追いつこうと必死になっていたあの頃の君だ。ボクの大好きな君の姿だ!
ああ、やっぱり好きだなア、ボクは君が好きだ。ボクはたしかに子供だけど、未熟者だって思うけど、人を好きになるのに、年齢なんて関係ないじゃないか?
「レヴォネ君に労いの言葉を伝えに行こう。君もぜひおいで」
「ハイ、ありがとうございます!」
シモンズ氏に誘われるままボクは立ちあがった。演奏を終えた直後のセデュは、疲れて、ぐったりしてるかな。いつにも増して色っぽい彼の声が聴けそうで、ワクワクする。
指揮者控室は、オケの楽屋とは少し離れたところにある。むしろ演者の楽屋に近い、個室だ、鍵は掛かっていない。ガチャリとシモンズ氏が扉を開けると、案の定、セデュはぼんやりソファに腰かけ天を仰いでいた。
約3時間半、出し切って、疲れ果てたんだろう。なにしろハジメテだもんなー、わかるわかる。賢者タイムってやつだ。
シモンズ氏の姿に気付いたセデュは立ちあがる。何も言えないままで老紳士にハグされ、ポンポンと背中を叩かれている。
「よくやったね、素晴らしかったよ、君は僕の、自慢の弟子だ」
「……。ありがとう、ございます、先生…」
感動の師弟愛をボクはニコニコ見守った。セデュももうしばらく、師匠の労いに浸っていたいだろう。極度の興奮状態からすぐに平静に戻れるわけもない。ボクはそうだな、隅っこの方でセデュが落ち着くのを待っててやろう。今日の主役はセデュだもんね(演者はボクにとっては脇役なので)。ボクはきちんと弁えることもできるのだ。伊達に3年も芸能人やってないからね。
化粧台の椅子に掛けて頬杖ついたボクは足を組んでリラックスする。個人用の控室はまあまあ広くて、整頓されてて居心地がいい。…前にシモンズ氏に挨拶に来た時より片付いてる気がするのは、セデュが掃除したからなんだろうな。ちょっと神経質っぽいとこがあるからな、あいつ…。
化粧台の上には何も載っていない。引き出しを開くとメイクセット一式がきちんと備えられてあるけど、これはシモンズ氏の私物かなア。セデュはいっつもノーメイクっぽいもんな。今だって――
「ルー!」
名を呼ばれて顔を上げる前に、どしんと暖かい身体がぶつかってくる。
今度はボクがハグされる番だったみたいだ。ぎゅうぎゅうしがみついてくるセデュは感無量って感じで、ボクの肩に頬を擦りつける。
「聴いてくれてありがとう。お前が客席にいることが、どれだけおれの支えになったか…」
「…ウン。よかったよ、すごく。コーフンしちゃった…」
「うん」
「君のこと、好きだなアって思い出したよ。惚れなおしたね」
「…ん」
「…ね、セデュ、ぼく、…」
「セデュイール3時間半お疲れ様―! あの気迫でぶっつづけに、よく頑張ったなア! こいつは俺たちからのプレゼントだぜー!」
バァン、ってな勢いで扉が開かれ花束を抱えたオケメンバーが雪崩れ込んできて、にこにこ見守るシモンズ氏の存在に気付いて、恐縮する。
悪ノリした男性陣の後ろには女性陣がいて、シモンズ氏に挨拶した後、セデュイールを取り囲んで誉めそやす。
弾き出されるみたいにセデュから引っぺがされたボクは壁際でぼんやり、花束を抱え、とりどりのお花に囲まれたみたいなセデュを眺めた。
…まるでディズニープリンセスみたいだぜ。デカくて声も低いけど。
「このあと、セデュイールと飲みに行くんだけど、君も来るよね?」
話しかけてきたのはセデュの友人のトランペット奏者だ。ボクが前回見た時よりも気合入れて演奏していたっぽい彼に、ボクは笑いかける。
「お邪魔しちゃおうかな。ひとりでセデュを待つのも寂しいし」
「そうこなくっちゃ! 君、酒飲める? まだ未成年だっけ、」
「結構のめるよーお酒大好き! おいしいワインのある店が良いなー」
「そんな上等なトコじゃないけど、まあまあイケるよ。なーセデュイール、ルーちゃん連れて俺ら先行ってるわ」
「まて、おれも行く、…ありがとう、今夜は皆よく頑張ってくれた。感謝している。先生、本当にありがとうございました。忘れられない夜になりました。それでは失礼します」
てきぱきと女性陣に労いを、シモンズ氏に挨拶を済ませたセデュがジャケットを手に持ちこちらに来る。
「もういいのかァ? せっかく女の子たちからチヤホヤされるチャンスなのにー」
ボクみたいな軽口で揶揄うトランペット奏者にセデュはふふんと鼻で笑い、
「機会ならいくらでもあるからな」
と嘯く。
「いけすかねえ色男だなーチクショウめ。どう思うルーちゃん?」
「いけすかねえ色男だね」
「おれはおまえの労いがあればそれでいい…」
「み、耳元で囁くなア! わざとやってるだろ君!?」
きっと睨み上げると珍しくセデュは声を上げて笑う。
とても上機嫌だ。きっと、満足いく指揮ができたからだろう。よかったな。
「イチャイチャは家でやってくれよう。彼女にフラれたばかりの俺に見せつけるなよなア…」
トランペット奏者の情けない声にボクらはまた笑って、腕を組んで裏口を出た。




