第二幕『月影に夜風の匂い』第十六場
姉さんだ。紺色のブラウスにグレーのロングスカート、ボクとよく似たブロンドは肩のあたりで切り揃えられている。
緑の瞳がボクを見て、呆れたように肩を竦めた。
「真っ昼間から、パーティーでも開いていたの? おめかししちゃって」
「…な、何か用…」
「あなたに話があって来たの。入れてくれる?」
「……」
姉さんの背後に、他に人影はなさそうだ。父さんとか、母さんは来ていないみたい。
ボクは身体を避けて姉さんを通す。ここはセデュの家だけど、共同廊下で口論なんかしてたら外聞が悪いだろう。しかも女が二人で、まるで恋人を取り合ってるみたいに見られるかもだし。そうしたらセデュの評判にもかかわる。複数の女を掌で転がす色男とか、言われちゃうかもだ。誉め言葉のようにも思えるけど、きっとセデュはいやがるだろう。
それにしても姉さんは、この場所を誰に聞いたんだろう。マチウか、マルセルかな? 口の軽いやつらめ。いずれにしても、この部屋はもう隠れ家ではなくなってしまった。…誰も知らない場所に引っ越すのは、セデュは気が進まないかなあ?
「あなたひとりなのね。てっきり誰かといるのかと思ったわ」
セデュのキッチンにあったカフェオレボウルに昼間飲んだ残りのコーヒーとミルクをたっぷり加え、お盆に載せて差し出す。姉さんは一口だけつけて、皮肉るように口端を曲げた。
「いるわけないだろ。セデュはでかけたって言ったよね?」
「あなた、そんなこと気にする子だった? いっつも遊び歩いてばかりの癖に」
「セデュもいないのに、そんなことする理由がないだろ!? …いやそうじゃなくて、何しに来たんだよ!」
思わず本音が出て、ボクは慌てて誤魔化す。…男の人と遊び歩いていたのが、セデュの気持ちを確かめるための試し行動だったのかもしれないってことは、自分でも無自覚だったけど、…たぶんそういうことだったんじゃないのかって、ごく最近気づいたのだ。
あんまりタチが悪くて自分でもうんざりするから、セデュには言えていないんだけど。
「ボクは姉さんと話すことなんかないよ。家にも帰らない! 以上! ご清聴ありがとうございました! お出口はあちらです!」
「ちょっと落ち着きなさいよ。まったく夢中になると、周りが見えなくなるんだから、昔から…」
「一途で一生懸命に生きてるんだよーボクは。セデュだってこーゆーボクが好きなんだって思ってくれてるもん」
「そう。まあそれはどうでもいいのだけど。あなたは婚約中なのよ。他の男と同棲なんて馬鹿な真似はやめて、帰って来なさい」
「帰らないって言ってるだろ!? それに婚約なんてボクは了承してない!」
「父さんがお決めになったことなの」
「知ったことかよ!」
「父さんはショックでまた寝込んでしまったわ。今度は一体どれだけもつか、…」
姉さんは俯いて言葉を詰まらせる。ボクは不穏な空気にちょっと怖くなって、姉さんにおそるおそる、問い返した。
「………そんなに、悪いの?」
「…。帰って来なさい。帰ってきたら、あなたの無礼は許すと父さんは仰せです」
「………ぃ、やだ」
「ルー」
「いやだ。ボクは奴隷じゃない。家族の犠牲になるのはうんざりだ!」
「私たちを見捨てるって言うの。たった一時の感情のために」
「ボクはこれまでさんざん家族には尽くしてきたつもりだ。生活費も、光熱費も、税金も、ぜんぶボクが働いたお金から払ってる。姉さんの学費も、父さんの医療費も、…」
「今のあなたが在るのは誰のおかげなの。父さんの指導と、母さんの献身のおかげじゃないの? あなたひとりで成功したみたいな口ぶりはやめなさい。ひとりじゃ料理も洗濯も碌にできないくせに!」
「ボクだってこんなこと言いたかないよ! でも父さんがボクを家に縛り付ける気なら、ボクは出ていくってことさ! ボクはマルセルとは結婚しない、絶対にしない! 姉さんだって、わかるだろ!? 大好きな人がいるのに、他の相手と結婚しろなんて言われて、従えるのかい!? 家族のためなら、って――」
「私なら従えるわ。家族のためなら」
「………」
冷然と答えられて、ボクは黙り込む。これじゃ、まるでボクがおかしいみたいな口ぶりだ。絶対、おかしいのは姉さんのほうなのに。前時代的で、旧弊で、家父長制に縛られた、奴隷みたいな考え方、なのに。
「……父さんには感謝してる。母さんにも、姉さんにも。…だけど、それとこれとは別だよ。ボクの生き方の問題なんだ。家族が口出す段階はとうに超えてる」
「あなたに何が決められるっていうの。いつも父さんの言いなりだったあなたが。今までだって、自分の頭で碌に考えても来なかったでしょう。第一あなたはまだ18よ。人生経験の点から言っても、――」
「ボクはセデュが好きだ。だから帰らない」
「……まるで子供のわがままね。恋愛が何かもわかっていないくせに。気に入りのおもちゃを離したくなくて喚いてる子供よ、まるで。本気で人を愛したことなんてないでしょう? セデュイールの何が良いの? 顔? 身体?」
「…顔もからだも声もぜんぶ好きだよ!」
「見た目じゃないの結局。あの人の考えてることが分かる? 理解できるの? ちんちくりんの子供のあなたに」
「わっ…かんないけど、そんなのみんな一緒だろ? 誰のことだってわかんないよ。理解できない。家族のことだってわかんないんだ。他人ならなおさらだ」
「わかろうとしないだけじゃない。あなたは努力を放棄してる。セデュイールを跪かせていい気になっているんでしょうけど、そんなことじゃあいずれ飽きられて捨てられるのがオチよ」
「セデュはボクを棄てたりしない! ぜったい!」
「どうしてそう言い切れるの。一体何の根拠があって?」
「だってボクは天才だもん。セデュはボクの才能に惚れ込んでるんだ。もちろんボク自身にもだけど。ボク以上にセデュを悦ばせられる女の子なんてこの世に存在しないね! ボクが新しい曲を作ると、いっつも目をキラキラしてさ、大喜びしてくれるんだ。そういう素直なところが好きだな、ボクが揶揄うと、困ったみたいに叱るけど、顔真っ赤にして照れたりしちゃってさ。シャイなくせに、時々すごく大胆で、強引なこともあってぇ、力が強くて、良い匂いがしてぇ…」
「…そういうところが、子供だって言うのよ」
吐き捨てるように姉さんが言う。ボクが見下ろすと、僕より10センチは背の低い姉さんは、どうしてか燃えるような怒りを宿した瞳で、ボクを睨みつけていた。
「…未成年誘拐と、未成年淫行の廉で、警察に訴えようかしら。セデュイールは何年くらい拘禁されると思う?」
「ゲッ。やめてくれよ。冗談だろう? …」
「そういう手段を採ることもできるの。あなたがあんまり聞き分けないようならね」
「………」
「今日は帰ります。どうするか、セデュイールとよく相談なさい」
姉さんはそう言い残して帰っていった。
見送りもできずぽかんとソファに掛けたボクは、時間も忘れてぼんやりして、…6時を打つ時計の音に我に返って、バッグを引っ掴み、家を飛び出した。




