第二幕『月影に夜風の匂い』第十五場
明日、オペラ座に立つことをおれはそういえばまだルーに伝えていなかった。しかし、作曲が終われば彼女は疲れて寝てしまうかもしれない。…伝えるのは明日でいいか。朝の寝惚け眼のルーには聞き流されるかもしれないが。ともかく、ルーがおれの無理強いを許してくれたらしいことをおれは肝に銘じなければ。
ぬるい湯で泡立った髪を洗い流していると、鼻歌が近づいてきておれは嫌な予感に静止する。
「できたよーセデュ聞いて! いまから歌うね! ラララ…」
「なっ、おま、…せめて風呂から出るまで待ってくれ!!」
バタンと扉を開けて遠慮会釈なく歌い出すルーに、おれはその日一番の大声で叫ぶ羽目になった。
…浴室に鍵を付けることが、緊急で必要かもしれない。
ルーの最新曲は、依頼のあった、香水店のBGMらしい。
軽やかな主旋律はヴァイオリンで、甘く蕩けるような愛を歌い、伴奏のチェロが優しく穏やかに包み込む。美しく繊細で、抒情的で、燃えるような体温も確かに感じるような、素晴らしい曲だった。
惜しみない賛辞を伝えるとルーは満足げなしたり顔で頷く。
「そうだろうとも。ボクは天才だからね! さっきのキスで思いついたんだ。君はボクの仕事に貢献してくれたってわけ!」
「それは、…光栄だな」
「だろー。感謝のキスはまだかなあ? ボクに曲にしてもらって君も嬉しいだろ?」
わざとらしく目を閉じ、唇を突き出して強請る。おれは躊躇いつつ、触れるだけのキスをした。…ぱちりと目を開いたルーに、至近距離から睨まれる。
「…それだけ?」
「…もうお前を困らせるのは、…」
「こまってないよ。えっちでコーフンしたもん」
「…悪かった。ああいうことはお前にはまだ早かった…」
「子供扱いするなよなあ! 君がしないならボクからしちゃうぞー!」
「…何、…」
舌を伸ばしたルーに唇を舐められその場で固まる。
ぺろりと自身の口端も舐めたルーは腕を組み思案顔で呟く。
「君の口ってなーんか甘い気がするな。甘いものばっか食べてるからかなあ?」
「…お前の唾液も、甘い味がしたよ」
「マジ? 君と同じもの食べてるから、伝染っちゃったかな?」
「そうだといいな」
「え?」
「お前と深く結びついて、離れられないくらい混ざり合いたい…」
「…それってえっちな話?」
「……。それはまだ早い」
「君が言い出したんだろー! なんだよお!」
けらけらと笑って客間のソファーに凭れるルーを微笑んで見つめ、おれは、明日の件について彼女に告げる。
「シモンズ先生の代わりに一日だけ、指揮棒を振ることになった」
「えマジ!? それっていつ!?」
「明日だ」
「えー!? もうあと18時間ないじゃないか!! 準備とか大丈夫!?」
「今夜は徹夜だな」
「わー、ゴメン、ボクの無駄口につきあってる場合じゃないだろ君!」
「いい息抜きになったよ。お前の新曲をふたつも見られたし。今日は最高の日だ」
「君の本番はこれからだろ! あー、ボクも聴きに行きたいなア、君の指揮者としての初舞台! 立ち見でもいいから、入れてもらえないかなア?」
「控室で見ているか?」
「中継じゃなくて、ナマで聴きたいの! 当日券とかあったりする?」
「…一枚くらいなら、なんとかなると思う。準備しておく」
「わーやった! ありがとーセデュ大好き!!」
「……うん」
溌剌とした、天真爛漫なルーの笑顔を、おれは眩しく思う。彼女といるためならばどんな苦難も乗り越えられる。
ルーはおれの、凡てなのだ。
スカイブルーのドレスは襟ぐりが大きくて、背中も大幅に開いているから一人で着られる。小粒のダイヤモンドが付いてるネックレスを付けて洗面所の鏡を見ながらメイクする。今日のルージュはひかえめなピンクだ。セデュはどうも、おしとやかな清純派が好みのタイプらしいので、それに合わせてやる。…ボクの性根とはかけ離れてるけど、こう、おとなしめのメイクして黙ってれば、ボクだって、清純派に見えなくもない? と、おもう。たぶん。
セデュはいつもどおり、朝ごはん(甘い甘いマドレーヌ)とお昼(白身魚のマリネと小エビのトマトパスタ)を作ってくれて、リハーサルのために午後になってすぐ飛び出して行った。今夜は遂に、やつがオーケストラボックスで指揮棒を振る日なのだ。ボクもすっごく楽しみにしてる。
開演が7時半だから、夕飯は6時半までには摂った方がいいな。セデュは今夜は忙しそうだから、マチウでも呼んで何か買ってきてもらおうか、外に食べに行ってもいいかな。時計は今4時を指してる。出かける準備をするには早すぎるけど、気が急いちゃってじっとしていられなかったんだ。だって今日は、セデュの晴れ舞台だし。
オペラの指揮で、コンサートがメインの公演じゃないから、オーケストラボックスは暗くてよく見えないだろうけど。それでもあいつの指揮による演奏が聴けるんだもの。これが楽しみでなくってなんだって話だ。
鏡の中にはだらしなく緩み切った表情のボクがいる。ふんふん鼻歌を歌いながらイヤリングを留める。百合の形を模した台座に小ぶりのダイヤモンドが輝いている。あと、セデュの要望通り、上に何か羽織って、靴とバッグを決めたら今日のコーデは完成だ。やっぱ靴とバッグは白かなー、羽織ものはー、このコーデでカーディガンだとダサいから、ジャケットにしよう。合う色味の持ってきてたかな。…まア万一なかったら、シャンゼリゼまで出向いて買えばいいか。
夕飯のことも考えて、まずはマチウに連絡しようと洗面台を離れたときだ。軽快なチャイムの音がボクの足を留める。
…なんだろう。セデュはまだリハの最中だよな? お客さんかな。一体誰だろう…。
「はいはーい、まってね、今行く…」
ドレスの裾を摘まんで玄関先に急ぐ。急かすように再度チャイムを鳴らされて、その無遠慮な音を止めたくてボクは扉を開けた。
「セデュはいないよー。お出かけ中でーす。誰…」
言いかけた言葉が止まる。扉の前にはよく見知ったひとの姿があった。




