第二幕『月影に夜風の匂い』第十四場
ルーとおれとの間に肉体関係はない。ただの一度もない。あいつが未成年だから、まだまだ精神が成熟していない子供だから、おれに流されて付き合うことになっただけで、あいつがおれに恋愛感情を抱いているとは考えにくいから――理由はいろいろある。
ルーが処女であるかどうかはおれは知らない。そんなことはおれの想いとは関係がないからだ。たとえルーがマルセルと関係していようと、他の男を知っていようと、おれのルーへの気持ちが変わるわけはない。
ただ、…恋人同士は、『する』のが普通であって、そういう関係がないのは、破綻の原因にもなりかねないというのは…誤算だった。考えてもみなかった。ルーがおれを再三誘うようにするのは、おれを揶揄っているからだけではなくて、本気で、…その、そういうことをしたいと思っている可能性も、あるということだろうか。
しなければ、ルーはおれでは満足できなくて、他の男と浮気すると?
…。……。………。
「おめでとう、あなたが遂にオペラ座の指揮台に上がるのね。私も嬉しいわ。祝杯を挙げたいくらい、…」
終演後の楽屋でローラに声を掛けられ我に返る。シモンズ先生の発表を受け、オケのメンバーは概ね好意的におれの登壇を受け入れてくれた。本番は明日だ。ありもしない憶測に惑わされている場合じゃない。明日の成功如何に、おれの進退が掛かっているんだ。ルーとの未来が、彼女のご両親に顔向けできる花婿となれるかが、掛かっているのだ。――
「祝杯は、公演が終わるまでとっておこう。気負って失敗するといけないからな」
「あなたに限ってそれはないでしょう。この間のバーで、一杯どう?」
「…今日は帰るよ。最後の予習をしておかないと。誘ってくれてありがとう、ローラ」
三々五々掛けられる祝福の言葉に謝意を述べ、シモンズ先生に挨拶してから、オペラ座を出る。スコアを抱えて歩く足取りはやはり駆け足になった。
ガチャリと扉を開けると、待ちかねていたようなルーの笑顔が迎える。
「待ってたよぉ、セデュ! ねえ聞いて、あの後帰ってきてからむしゃくしゃして仕方なくてさあ、怒ってたら新曲できたよ! くそったれのマーチだよ! 発表する場はないけどね!!」
ほらこれ、見て見て、とルーが直筆のスコアを差し出す。溌剌とした笑顔が眩しい。おれは何を不安がっていたのだろう。ルーはこんなにも、…一途に音楽を愛して、それに身を捧げているようなやつなのだ。男と遊ぶのも曲のため。人生経験のためだ。決して男に夢中になったりはしない。こいつ自身が、言っていたではないか――
「見せてごらん、…ああ、激しい曲だな、…」
「これがぼくの怒りだよ。マグマみたいでしょう? ここのクレッシェンドとか…」
白魚のような繊細な指が示すスコアに屈みこむ。乱雑に書き殴ったように見える音符が、しかし情熱的な旋律を奏でて、おれはそれにうっとりと目を落として。
興味深そうに顔を近づけたルーに、次の瞬間、唇を奪われる。
「えっへへ。隙だらけ。間抜け面」
軽く触れただけの唇が離れ、したり顔で笑う。小憎らしい、愛おしい、悪戯っ子を捕らえておれは、再び口づけをする。ゆっくりと、確かめるように何度も重ね、うっすらと開いた口に誘われるまま、その味を知りたくて、舌を差し込み、絡みつき、舐めしゃぶり、…
力の抜けたルーの掌からスコアが零れ、ばらばらと床に散る。
気づいたらおれは、ルーの背を壁に押し付けるようにして腕に閉じ込め、その唇を貪っていた。
はあはあと息を荒げるルーを見ていられなくなって慌てて身を離したおれは、屈みこんでスコアを拾い集める。
スコアを抱え立ち上がってもルーはぼんやりしたままで、濡れたような眼で茫洋とこちらを見上げていた。
「ほ、ほら、ダメだろう、お前の曲は、だいじに扱わないと、…」
「…きみの唾、飲んじゃった」
「……」
「ぼくの唾も、飲まれちゃったな」
「…悪かった、いきなり、…いや、だったろう、…」
「……」
頬を朱に染めたまま何も言わない彼女にいたたまれなくなって、目を逸らす。…やってしまった。性を匂わせるような行為は、まだ駄目だ。そう言い聞かせてきたのに。ルーは子供で、未熟で、おれを愛しているかどうか、まだわからないような状態で、…
「もうしない。おまえの許可のないままに、口づけをするようなことは…」
ルーの腕がついと上がり、形のいい爪で、唇にふれる。撫でるようにしばらく指先はそこに置かれ、ルーは何も言わないままぼんやりしていたが、不意にくるりと踵を返し、部屋へと駆け去る。
風のように去ってしまったルーを玄関先で呆然と見送っていたおれは、ルーの貴重な直筆譜を抱えて後を追った。
おれの身勝手について、誠心誠意謝ろう。おれはこんなことでルーとの関係を駄目にしてしまいたくはない。あいつが嫌がるならもう二度と口づけできなくなっていい。ただ傍にいられたら、鮮やかな花のように笑い、飛び跳ね、歌うように音楽を生み出すルーを見つめていられたら、おれはそれでいいのだ。
「ルー、すまない、おれはもう二度と、…」
「待っていま話しかけないで!」
寝室のデスクに屈みこんだルーの凛とした声に制止され、おれは扉口に立ち止まる。ガリガリと性急なペンの音がする。ルーは新たな五線譜に走るような勢いで、音符を書き込んでいた。
「ララ、ルル…ああそうだ、ここでスラー、リタルダンド…ふふ、そうそう、いいぞお、甘く柔らかく、…撫でるように、陶酔させて…」
鼻歌を口ずさみながら作曲をつづけるルーは完全に自分の世界に入っている。これは、当面は話のできない状態だろう。邪魔しないようにおれは荷物を下ろし、音を立てないようクローゼットを開けて着替えを出してから浴室に向かった。




