第二幕『月影に夜風の匂い』第十三場
「聞いてくれよセデュ、ひどいんだよ!? マルセルのヤツ、まだボクを諦める気ないんだとさ!! 父さんまで丸め込んで、婚約は継続してるみたいなこと言って――」
連れだって入った地下レストランでどんとテーブルを叩き、ルーが叫ぶ。
その愛らしい唇から零れる甘美な音階に聞き惚れていたおれはしかし、尋常でない話の成り行きに眉を寄せた。
「…婚約…?」
「そーだよ! 前時代的だと思わない!? 親の決めた相手と結婚しろーとかさ。19世紀かっての!!」
躊躇いがちに近づいてきたギャルソンにぶすくれた表情のまま挨拶し、メニューを指さして「これとこれお願い」と注文する。
「同じもので。おれは酒は要らない」
ギャルソンがメニューを持って去ってから、ルーの悪態は加速する。
「今までボクが必死で働いてさ。一生懸命みんなを養って来たってのにさ。父さんはマルセルの提示した条件を飲んだんだ。ハリウッドの豪邸に移住だって!? 戦時中ですら亡命しなかった父さんが!? あの身体で長時間の移動なんかできるもんかよ。ボロボロになって寿命を縮めるのがオチだよ。…父さんはボクの将来性を信じてないんだ。そのうち飽きられて仕事なくなるとか思ってるんだ! だからマルセルなんかの口車に乗ったんだチクショウ!」
悔しそうに吐き捨てて水の入ったグラスを呷る。空になったそれに瓶から注ぎ足すとすぐにそれも飲み干す。
「…お前のご両親は、まだマルセルとの話が終わっていないと…」
「そうだよ。そう思い込んでる。というか…マルセル自体が、そのつもりみたい」
「……」
「きみのことは、まだ…話せていないんだ。ごめん。姉さんには伝えたんだけど…」
一転、肩を落として心細そうな声になるルーを安心させるように首を振る。ギャルソンがサラダを置いていったタイミングで、おれは口を開いた。
「…そんな状況なら仕方がない。お前が話したところで、ご両親は聞く耳持たなかったろうし、…」
「…うん」
「おれはまだ見習いに過ぎない。俳優として活躍しているあいつに比べたら、収入は雲泥の差だろう」
「…じゃああきらめるの? きみは」
サラダに載ったトマトを突きながらルーが口を尖らせる。恨みがまし気な色を宿す瞳が可愛らしくて、おれは笑った。
「まさか」
「…だよね!」
「一刻も早く独り立ちして、ご両親を納得させられるだけの実績を手に入れる。お前を任せても安心だと思われるくらいの…」
「うんうん!」
「一朝一夕というわけにはいかないが、必ずやり遂げてみせる」
「期待してるよ。ちなみにリミットはボクの20歳の誕生日だから」
「…あと1年半か」
「まあ無理でも、かけおちしちゃえばいいんだけどね。ボクはもう家に戻るつもりはないし。縁も切ったし」
「……」
淡々と呟いてオリーブオイルに漬けられたピクルスを避けつつ、レタスに齧り付く。
…それが強がりであることをおれは知っている。幾分エレクトラ・コンプレックスの気のあるルーのことだ。父親の支配を鬱陶しいと思いこそすれ、家族と絶縁することなど、本心から望んでいるわけではないだろう。
――おれとの関係のために、ルーに無理をさせてはならない。そんなことをすれば、いずれ破綻が来る。おれはルーと添い遂げるつもりなのだ。ルーが許してくれるならば。だから、避けられる衝突は避け、万難は排しておきたい。
「お前がそんなことをせずにすむよう、死ぬ気で努力する…」
「努力じゃどうにもならないこともあるだろ。無理すんなよ。…でも、ありがと」
テーブルに載せられたままの彼女の掌を握り締めると、ルーはやっと微笑んで、おれの手を握り返した。
決意を秘めオペラ座に戻ったおれは専用の控室にいるシモンズ先生に会いに行く。先生はいつも通りごく穏やかにおれを迎え、おれが独立の意志表示をしても声を荒げることもなく平常で、
「そうだね。君もそろそろ実地で経験を積む頃合いだ。ではどうかな、明日の公演は、私の代わりに指揮棒を振るというのは」
と唐突に言った。
「…よろしいのですか」
「ウン。僕もちょっと最近腰が痛くてねえ。一日くらい休みたいなーって思ってたんだ、ちょうどよかったよ」
「…演者の皆様に伝えてきます。オケのメンバーにも」
「いい、いい。終演後に僕から言っておくよ。君は明日の本番に備えて、準備しておきなさい」
「…このような機会を与えていただき、感謝いたします、シモンズ先生」
先生の微笑みに見送られおれは控室を出、オケメンバー用の楽屋へ向かう。おれの荷物はすべてそちらに置いてある。足取りがどんどんと早まり、最後は駆け足になって楽屋へ飛び込む。心臓が早鐘を打っている。降って湧いた幸運を逃してはならない、必ずこのチャンスをモノにして、次に繋げなくてはいけない。
楽屋ではオケのメンバーが揃いつつある。リードの準備をしているオーボエの隣に掛けスコアをチェックしていると、例のピーターがにやにやしながら近づいてきた。
「上機嫌だなア。ルーちゃんとのデートがさぞや楽しかったんだろうなア。いいなあ、羨ましいぜえ」
…悪いやつではないので放置しているが、仕事場でこの学生ノリはなんとかならないものだろうか。40代のオーボエ担当サンルー氏は苦笑している。さもありなんだ。
「いい加減鬱陶しいぞ、お前も準備を始めろ」
「いいじゃんか友達のよしみでさあ。教えてくれよおー。休憩時間、ドコ行ってナニしてたの? くわしく!」
「レストランで昼食を食べただけだ。特に面白いことなどない」
「昼食とルーちゃんを両方食べた?」
「お前は何を言っているんだ」
「えー教えろよお。狡いぜえ。俺なんか彼女にフラれたばっかりでさあ。寂しーのなんのって」
「お前のそういうガキっぽいところに呆れられたんじゃないのか」
「鋭い! けどなあ、俺の性分は十分理解してたはずなんだよなあ。もう3年も付き合ってたんだから」
おれの動向に興味がある振りを見せつつ、ピーターは失恋話が語りたいのだろう。スコアから顔を上げにおれは適当に相槌を打つ。
「では他に理由があったと?」
「まあ一番は、アレだろうな」
「あれ?」
「彼女、オケに就職できなくて、会社員してるって話したことあるだろ? 同棲してても、全然時間の感覚があわなくって」
「…そういうこともあるか」
「お前も気を付けろよオ? 重大な問題だからなあ」
「おれは別に、…」
「そ? 俺たちはかなり長いことご無沙汰だったけど、お前は毎晩愉しんでるってか? はあー羨ましいねえ。芸能人ってプレイもやっぱちょっとアブノーマルだったりすんの?」
「は?」
「いや、だからあれの話だよ。セックスレスだと恋人同士は長続きしねえって――」
ハープの女性にじろりと睨まれてピーターは口を噤む。後はとってつけたような小声で、おれの耳元で囁いた。
「彼女、経験豊富なんだろ? マルセルともデキてたし。どうなんだよ。どんな感じ? …」
「………」
「一人で部屋に残しておくの、不安にならねえ? お前の部屋に、マルセルを招いたりとか…マルセルじゃなくても、他所の男と…とかさ。そういうの、お前は真面目だから考えられねえだろうけど、案外女って隠し事が上手だから――」
がたりと訳もなく立ちあがって、そのまま着席する。頭にぼんやり霞が掛かったようであるのに、ドクドクと心臓が煩い。先ほどの歓喜とは真逆の感覚だ。嫌な汗が流れる。
「…まさか、ルーに限ってそんな…」
「女のすべてを理解できると思わない方がいいぜえ。セックスに不満があると、簡単に浮気されるから――」
「ピーターいい加減にして!」
女性陣の叱責を受けて友人の囀りは止まる。おれの心に強大な、岩のような重石を投げ込んで。




