第二幕『月影に夜風の匂い』第十二場
「はいはーい、もしもし。レヴォネでーす。セデュはいないよーどちら様?」
『やあ、こんにちは、お姫様』
「………」
白々しい甘い声に頬が引き攣る。マチウのヤツ、セデュの番号を教えやがったな。どーせマルセルに丸め込まれたか、圧し負けしたかなんだろうけど、いちおうここ、人んちなんだぞう!?
…ハア。ここでボクがカッカしても仕方ない。伝えちまったもんはもうしょうがない。さっさと話を進めよう。
『君から僕に連絡したいって言ってくれたんだって? 嬉しいな、彼と別れる決心がついた?』
「いや早いだろ。付き合い始めてまだ3日しか経ってないよ」
『男に幻滅するには十分すぎる時間だよ』
「ボクはセデュのことは知ってるもん。今更幻滅なんてナイナイ!」
『どうだかねえ。彼だって男だ。君に隠してることのひとつやふたつ…みっつやよっつ…』
「ないって言ってんだろーしつこいなアもう! それより君の話だよ!」
『僕?』
空とぼけた声が応える。相変わらず掴みどころのない男だ。つい昨日、諦めて身を引くって言ったばかりなのに。…まだ婚約中だって? ふざけんなって話だよ。
「父さんが言ってた。君と父さんとの間で、ボクとの結婚の話が進んでるって」
『うん。君もいたよね? あの時』
「…いや、え? ボクは一度も承諾してないし。君とはもう終わったろう? ボクはセデュと付き合うんだから、君から父さんに話して――」
『どうして?』
「……は?」
『君が彼と付き合うことは認めてる。結婚前に他の男を経験しておくのもまあ悪くないんじゃないかなって思うからね。比較対象があったほうが、僕の魅力がよりわかるだろうし』
「……え?」
『だから、結婚までの2年は好きにしていいよ。20歳の誕生日になったら君を貰いに行く』
「いやボクは物じゃねえし! 大体まだ未成年――」
『両親の同意があれば女の子は15歳で結婚可能なんだよ、知らなかった?』
マルセルの声の調子が、宥めるようなものに変わる。聞き分けのない子供に、言い聞かせるような。
『ほんとは今すぐにでも、僕は君を奪えるって訳。2年の猶予――まあ正確にはあと1年半か、それだけの猶予をあげたんだから少しは僕に感謝してほしいなあ』
「し、知らないよ。なんでそんな話になってんだよ。当事者抜きで…」
『君のご両親と僕とでよく話し合ったからね。婚姻関係にある間ご両親の面倒の一切は僕が請け負う。ハリウッドに新居を用意するつもりでいるんだ。2.5エーカーの土地に、三軒家を建ててね。僕の母親と、君のご家族に住んでほしい。ご両親も納得されていたよ』
「………」
開いた口が塞がらない。なんだそれ、じゃあボクは金に目が眩んで売っ払われたってコト? こんなの奴隷と一緒じゃないか? 今までさんざん仕事して、いっぱい稼いできたのに、父さんはボクの将来が不安なのか? ボクの収入だけじゃ、満足できないっていうのか?
…もう我慢の限界だ。ボクは家族と縁を切る!!!
「ボクは君とは結婚しない。誰に何を言われてもしない!! 君はその豪邸とやらに相応しい、可憐で上品なお姫様でも探せばいいさ。ばーかばーか。くそったれ!」
ガチャンと受話器を叩きつける。ハアハアと肩で息をしながら、ボクは上半身裸の間抜けな格好で憤然と立ちあがった。ぎゅっと拳を握りしめる。
たとえマルセルが何を言ってきてももう聞かない。ボクはセデュの花嫁さんになるんだから!
3年付き合って来た彼女と別れた。
いつものように仕事の後同僚たちと飲みに行き、ついでに友人の忘れ物を届けて――いいところで中断したばかりみたいな友人のあられもない格好を見せつけられて――日付の変わる頃家に戻って、それでお冠の彼女に、別れを切り出されたのだ。
…曰く、俺は彼女のために労力を割かなすぎるだとか、仕事にかまけて放っておかれすぎて愛が冷めたとか、そもそも共に過ごす時間が少なすぎるとか。
寝耳に水だった俺はぽかんと彼女の言い分を聞いて、反論をさしはさむ隙すら与えられず、彼女は荷物をまとめて部屋を出て行った。深夜2時のことだ。
…こんな真夜中に彼女を放り出すのはさすがにしのびなくて、パリ市内の彼女の実家までは俺が送ってやったんだけど。
学生時代に付き合い始めた彼女はヴァイオリン科の学生で、俺のひとつ年下だった。卒業後順調にオケに採用された俺とは違い、いまいち就職に手間取っていた彼女は音楽関係の出版社に勤め始め、夜が本番の俺の生活とは真逆の、早朝に目覚めて毎日律儀に決まった時間に通勤する会社員の生活を送っていた。
そう考えると破綻が訪れるのは、案外遅いくらいだったのかもしれない。
酔って帰宅した俺がセックスを強請っても朝が早いからと彼女に拒否され、早朝その気になった彼女に誘われても俺は眠くてそれどころじゃなくて、休日はお互い友人との付き合いで忙しくて、もうずいぶんご無沙汰だったし。
やっぱりセックスのない恋人関係なんてのは、なんで一緒にいるんだって感じだしな。仕方ない仕方ない。
…ハア。今日も二日酔いで頭が痛え…。
いつも通り、2時過ぎに職場に着いた俺は学生時代からの友人の満面の笑みに迎えられる。
「Hi.ピーター、昨夜はありがとう。まだ酒が抜けていないようだな。ほどほどにしておけよ」
元・指揮科の首席で、今は著名な指揮者で音大の教授でもあるシモンズ先生について勉強中のセデュイールだ。品行方正で、酒に弱くて、生真面目で熱心な努力家で、そんで最近、有名美少女ピアニストのルーと同棲中らしい男だ。
まったく羨ましいなア。こっちは彼女に振られたばっかりでどんよりしてるってのに、セデュイールのヤツは周囲に花でも飛んでいそうな浮かれぶりだ。
…しかし、ルーと付き合い始めてからこっち、学生時代にも見たことねえような顔ばかりしてるなコイツ。これはもう、相当ルーに蕩かされて夢中になってるんだろうなア。昨夜もあの真っ白な胸に顔を埋めたりなんかして…1回きりじゃ満足できなくて、何度もあの蠱惑的な高い声をフォルテッシモで泣かせたりしてな。
パリじゅうの女がメロメロになるような色男のくせして、今まで浮いた噂のひとつもなかったこの男がこんな顔するほどだ。ルーってのは大した床上手なんだろーなア。まだ18だってんだから、末恐ろしいぜ。
はあ、なんっかムカついてきたな。幸せ満面ってな感じのコイツをせめて揶揄ってやろうか…。
「Ciao.昨夜はカワイイ恋人との蜜月を邪魔しちまって悪かったな。ルーちゃんも怒ってなかったか?」
「…。あいつは怒らないよ、そんなことでは…」
「あれだけ綺麗で心も広いってか。はー羨ましいねえ」
「そうだろうとも」
セデュイールは誇らしげな顔で頷きつつ平然と言ってのける。
…揶揄ってやるつもりが、のろけを聞かされちまった。コイツ、10代少女に懸想するロリータ・シンドローム患者のくせしやがって…。
リハが終わり、本番までの限られた休憩時間に俺たちオケのメンバーは夕食を摂りに外に出る。
真夏の日差しはまだ煌々と石畳を照らしてる。よく晴れたパリの街を行きかう人はみなジャケットを脱いだ軽装だ。もちろん俺も私服のTシャツで、楽器は置いた気軽な身体だ。
オペラ座の演奏者控室から同僚たちと裏口を抜け表に出ると、ファザードの下には見覚えのある女の子がいる。
真っ白の清楚なブラウスがよく似合う、どこぞのご令嬢みたいな雰囲気の、ルーちゃんだ。
ルーちゃんはすらりと背が高くて華奢で凹凸の少ない身体は少年のようで、ゆるく結んで肩に垂らした長く艶やかなブロンドだとか、きらきらした淡い緑の瞳だとか、整った顔立ちだとかが、なんというか、汗一つかかない、人間の血肉を備えていない磁器人形みたいに見える。
俺は同僚たちに先に行ってもらって、ルーちゃんに声をかけようかとちょっと躊躇って、思い切って話しかけようとして――
ぐいっと力強い腕に肩を掴まれて引き戻される。
見上げると迫力のある美貌が、俺を睨み下ろしていた。
「ルーに何か用でも?」
「え、いやーまあ、何してんのかなーって思ってさ。女の子がひとりでいたら、声をかけるのがマナーだろ?」
「イタリア男のようなことを言うな、アメリカ人のくせに」
「アメリカ人は自由恋愛を提唱してるんだ。2人彼氏がいる子なら3人目もアリじゃないか? 俺はぜひとも立候補したいね!」
「セデュ!」
くるりと形のいい頭がもちあがり切れ長の瞳がこちらを捉え、さっきまでの、人外じみた冷ややかな無表情が嘘のようにその頬が綻ぶ。柔らかなバラの花みたいに。清楚な人形じみた雰囲気をぶち壊すように大口開けて、天真爛漫に、ヤツを呼ぶ。きらりとその小さな薄い唇の中で、白い犬歯が光った。
「お前には悪いが、ルーの彼氏はおれひとりだ」
俺の隣でルーちゃんにうっとり見惚れながらヤツが言う。
映画俳優とのスキャンダルについては、頭の隅から追い出すことにしたらしい。
まあコイツは真面目なヤツだから、彼女が他の男とイチャつくのなんか耐えられねえよな。
「惚れ込んでるんだねえ」
「勿論だ」
俺の揶揄いなどどこ吹く風と、満足そうにセデュイールは頷き、淡い微笑を口元に刻む。
「彼女はおれの女神で、天使で、妖精だ」
パリじゅうの女がメロメロになるような笑顔で堂々と、色男はそう宣った。




