第二幕『月影に夜風の匂い』第九場
「よおセデュイール! ご機嫌麗しう! 忘れものだぜえ、まったく顔のわりにウッカリさんなんだからなあお前はー…」
ガチャリと開けた扉の向こうにいたのはピーターだ。その手には手帳を携えている。
おれが楽屋に忘れたものだ。わざわざ届けてくれるとは、殊勝なところもあるようだ。
「ああ、悪い。ありがとう。…」
「……」
酔っているらしい赤ら顔のピーター(こいつは酒豪で毎晩飲み歩いているらしい)は何やら深刻な顔でこちらを注視し、それから伸びあがって廊下を覗き込む。
「なんだ。うちに酒はないぞ」
「いやそーじゃなくて…」
「…上がるか? せっかく来たのだから…」
「え? あーいやー…」
珍しく口籠ったピーターはなぜか玄関先でもじもじしてから、
「俺はもう帰るな! じゃまた明日! 邪魔して悪かった! ごゆっくり!」
と、まるで見ていたかのように言って、踵を返した。
「セデュう、なんか着ろよお、風邪ひくぜー?」
ぱたぱたとカーディガンを手にしたルーが駆けてきたのは扉を閉めたちょうどその瞬間だ。振り返った彼女の眩しいほど白い太腿が目に入っておれはドアに後頭部を打ち付けた。
「な、なにを、なんで脱いでる」
「え? あーちょっとウエストでかすぎて邪魔くさいからさあ。まーミニのワンピースだと思えばいいかなって。それよりほら、そんなほとんど裸みたいなカッコで来客対応するなよう。ほんとに変態みたいだぞう?」
「お前が言うな! な、なにか履け! …裾を持ち上げるな!」
「えー君の反応が面白くって」
「大人を揶揄うな!!!」
ルーは天真爛漫に笑っている。おれの後ろ暗い秘密を知ったことなど、なんということもないように。
最悪、ルーとの破局も覚悟していたおれは、脱力する。
こいつには敵わない。どうやったって、敵う訳もないのだ。
おれは初めて会ったあの日からずっと、こいつに惚れ込んでいるのだから。
寝不足の目元を瞬きながら起き上がる。やっと空が明るくなり、窓に引かれたカーテンに飛び交う鳥の影が映る。13年ずっと想い続けていた相手は今おれの寝台で眠っている。隣室からはことりとも物音がしない。普段の饒舌が嘘のように、眠る時は静かなのだな、と、初めて知る事柄に胸が疼く。
以前共に泊まった時は、おれは一杯一杯で、バスルームに籠って煩悶を散らすのに必死で、あいつのことに気を配る余裕がなかった。
18になったルーは背が伸び、手足や指はいっそう長くすらりとして、けれどその透き通るような肌は昔のままで、生き生きとした瞳と、朗らかに綻ぶ唇も昔のままで――
どうしてもあいつに引き寄せられてしまう思考を頭を振って散らせて、おれはソファから立ち上がり、廊下に出る。洗面台で顔を洗い歯を磨きルーの歯ブラシがないことに気付き、時計を見る。5時53分。勿論店などどこも開いてはいない。宵っ張りのルーが目覚めるのは、早くとも8時過ぎだろう。
部屋で一人悶々としているのも遣る瀬無くて、おれは鍵だけを掴んで部屋を出る。
友人のエジプト土産の黒いTシャツ(スカラベの模様がプリントされている)とスウェットの軽装で、セーヌ河沿いの遊歩道を走る。新鮮な朝の空気に水面は揺れ、涼やかな風が立って淡いグレーの波紋をいくつも描く。時折犬を連れた人とすれ違う。軽く会釈して通り過ぎる。運動不足解消のために日課にしているランニングだが、問題が山積している今のような状況では、頭の整理をするのにも役立ってくれる。
ポン・デザールを渡り、学士院の方面に行く。ドームの近くに人通りは少なく、静寂が身の裡に染み入る。造幣局の前を抜け、サンミッシェル広場を通り過ぎ、シテ島に渡ってぐるりと一周し、ポンヌフを渡ってまた左岸に戻り、植物園の方まで足を伸ばす。青々と茂る木々の向こうに見える金属製の温室を横目にそのエリアを一周し、国立図書館を超えたあたりで右岸に渡る。
アパルトマンに戻るころには曇り空から晴れ間が覗き、明るい陽光が石畳の道を照らしていた。
汗で濡れた衣類はランドリーバッグに叩き込みシャワーを浴びる。汗と共に脳髄にべったりと貼りついた埒もない欲望が洗い流されていくような気がする。舞台の上のルーの女神のような崇高な美しさを思い出して、不可侵の誓いを胸に刻む。まだ精神が成熟しているとはとても言えない今のルーに手を出すことはしてはいけない。たとえ思いを通わせ合ったとはいえ、相手は18の子供だ。せめて成人するまでは、そういうことは、…
「ちょっとトイレ貸してえ。あーおはよーセデュ…ふああ」
なんの躊躇いもなくガチャリと扉を開けたルーの、寝ぼけたような声がして、おれは飛び上がる。
シャワーカーテンを握りしめてバスタブに屈みこむ。ばくばくと心臓が早鐘を打っている。かたんと腰かけるような音がして、軽やかな排泄の音が、シャワーの合間に、…
「おまえに羞恥心はないのか!!!」
「えーしょーがないじゃん生理的欲求はさあ。漏れそうだったんだもん。きみのベッドに漏らしてもよかった?」
「いいわけがあるか…」
「でしょ? ふあ…あーまだねむいや。二度寝しよーかな」
「おまえというやつは…」
「ええ? なあに、朝からお小言ぉ? ああ、それとも一緒にシャワー浴びてほしかったぁ?」
「近づくな入ってくるなカーテンを開けるな! こら! 手を洗ってさっさと出ていけ!」
「いいじゃないかよー。もう彼氏彼女なんだからよー」
ジャアアと排水の音がしてこちらに寄ってきたルーにカーテンを開けられそうになって抵抗する。互いに両側からカーテンを握りしめて力比べのようになり、体力のないルーはすぐに諦めアッサリと洗面台に向かって行った。
「もーお堅いんだからなア。きみだってぼくのハダカ見たんだから、ぼくにも見せろよなー」
「あれは不可抗力だったろう…」
きちんと手を洗ったルーはぶつぶつ文句を言いながら去っていき、おれはバスタブでぐたりと項垂れた。
シャワーのノズルを捻って冷水に替える。
頭を冷やさなければ浴室からは出られそうになかった。




