第二幕『月影に夜風の匂い』第八場
セデュがシャワーを浴びている間、ボクは寝入りばなの読書でもしようと本棚の前に立つ。ばかでかい本棚には音楽関係の書籍がたくさん並んでいる。有名な音楽評論とか、音楽家の人生について書かれた本、後はスコア、スコア、スコア…
背表紙を辿っていたボクはふと指を止める。
下段の一番右に、スケッチブックが挟まっている。なんだろう、セデュが絵を描くなんて聞いたことがない。一体何が飛び出すだろうと期待しつつ、ボクはそいつを引き抜く。
中身は、絵じゃない。雑誌とか新聞の切り抜きだ。印刷の悪い荒い写真が載った小さい記事の、こいつも音楽関係の、演奏家の記事かな。
ぱらぱらと何の気なしにページを捲っていたボクは手を止め、また初めから記事を見直す。
そこには5歳のボクの写真とともに、「最年少ピアノコンクール優勝の快挙」との文字が躍る。
次のページには翌年の、そのまた次のページにはさらに翌年の。約10年にも渡って世界中のピアノコンクールを荒らし回ったボクの快挙が、そこには載っていた。
…ほぼすべてのコンクールにセデュも出ていたはずだから、写真の隅にセデュの姿でも写ってんのかなと思って隈なく見たけど、どうもそういうことではないらしい。
…するとあれか、セデュは11歳の時から、倒すべきライバルの記事を掻き集めてスクラップブックを作り上げ、闘志に燃えていたのか。いつか絶対倒してやるって。ふんふん、可愛らしい決意じゃあないか。遂に一度も果たすことの叶わなかった夢だけれども。それもこれもボクが天才だからである。へっへっへ、なんて罪なボクだろう。
調子に乗ってパラパラぺージを繰っていたら今度はボクがプロデビューしてからの記事がでてきた。ボク自身も把握していないような、海外の新聞の切り抜きもある。セデュはどれだけ手間かけてこれらをかき集めたんだろう。よくやるなア。なんて勉強熱心なんだろう。…さすがにマルセルとのスキャンダル記事はないか。音楽関係ないもんな。
ぺージが尽きると、最後にはぶ厚い冊子が挟まっている。そいつも関連記事のスクラップブックかなーと思ってぱらぱら開いて、格子に囲まれた紙面にびっしり、几帳面に入れられた写真に息を飲む。
そこにあったのもボクの写真だ。5歳から、15歳までのコンクールでの姿と、15歳から、18歳――つまり現在――までの、ステージ上の姿の。
…セデュがカメラを構えてるところは見たことないから、これは市場に出回ってる写真、なんだろうな。隠し撮りみたいな、プライヴェートのものは一枚もないし。多分正規の手段で手に入れたんだろう。
それにしてもすごい数だ。それだけボクのピアノ歴が長かったってことか。なんだか、懐かしいな。あっ、このドレス、嫌だったんだよなア、素材が荒くて、ちくちくしてさあ、…。
「ルー、まだ起きて、…」
「え?」
いつの間にかシャワーから出たらしいセデュに声を掛けられ、顔を上げたボクは、いつかと同じ、上半身裸で腰にタオルを巻きつけただけの無防備なセデュの姿を目にして、飛び上がる。
あ、急いでて着替え持ってかなかったのか。案外あわてんぼうさんなんだなあ。しっかりしてそうにみえるのに…。…。…それにしてもいい身体だな。細いけど筋肉もついてて腹筋も割れてんじゃん。鍛えてんのかな。いつ鍛える時間があるんだろう。毎日仕事で忙しそうなのに…。
見慣れない若い男の裸にぼーっとしてるうちにツカツカとその裸、じゃなかったセデュが近づく。
腕を伸ばしたセデュは、ひったくるように、ボクの手の中の、スクラップブックを取り上げた。あまりの勢いに手からアルバムが零れ落ち、中の写真が絨毯の布かれた床にばらばらと散る。
「あーあー。なにしてるんだよもう、…」
「…見、たのか」
「え? そりゃ目ついてるからね。見たけど…」
「……」
耳どころじゃない、みるみるうちにセデュの顔に血が上って、リンゴの実みたいに、チェリーみたいに、赤面する。ぱくぱくと口を開閉して、なんか泣きそうに顔を歪めて、だらりと垂れ下がる手にスケッチブックを力なく掴んで。
「…わるかった、おまえに黙っていて…」
すっかり絶望したみたいな掠れた声で、言った。
「え? なんであやまるの」
「なんで、って、…」
セデュは俯いて唇を噛み締め、躊躇うように言葉を探す。
そして思いついたらしい言葉は、ボクには思いがけないものだった。
「…気持ちが悪い、だろう、こんなのは…」
「………」
気持ちが悪いってなんのことだろう。ボクは本気でわからなかった。君が勉強熱心なこと? 君が闘志に燃えていたこと? 君がボクに憧れて、追いつきたいって思っていたこと? 君がそうなるのは当然だ、だってボクは天才だもの。
君が舞台の上のボクをきらきらした目で見ていたのを知ってる。
敵愾心を超えるような、情熱と愛で、ボクに憧れていたことを知ってる。
君はバカが付くほどの音楽マニアで、それでボクの一番のファンなんだって、ボクはとっくに知っているんだ。
だから気持ち悪くなんてない。何を今更って感じだ。セデュはなんか、ボクの沈黙を勘違いしたみたいで、今はこの世の終わりみたいに青褪めてる。くしゃりと前髪を掻き混ぜて、そのまま震える手で、目を覆ってしまう。ボクを見ていられないとでもいうみたいに。
「…ご覧の通りだ。おれは変態だ。軽蔑してくれていい、当然だ…」
「…君が変態なら、ボクはどうなるのさ。ボクだって君と同じくらい、いや君以上に音楽を愛している自負がある!」
「おんがくのはなしではなくて、…」
「僕の見た目が君のタイプだって話? それもお互い様じゃないか」
「は、…」
ボクは床に跪いて写真を拾う。5歳のボク、8歳のボク、13歳のボク、18歳のボク。
どの写真のボクも満ち足りた顔をしてる。舞台の上で、恍惚となって、音楽と一体化している瞬間の写真だからだ。羽が生えたみたいに自由になって、絡みついてくるしがらみとか、厄介事とか全部忘れて、没頭しているからだ。
このために生まれてきたんだって思うくらい、ボクはあいしているからだ!
「よく撮れてるね。みんないい顔してる。このときはショパンでしょ、このときはリスト、こっちはベートーヴェン、モーツァルト…」
「…ルー、…拾わなくていい、…」
「これだけ長い時間、君はボクといたんだなア。ボクを見ていてくれたんだ。ずっと、…きみはこのときブラームスを弾いていたね。間奏曲イ長調、作品118-2、…穏やかで、きらめく水面みたいな、美しい音色だった、覚えてるよ…ララ、…」
屈んだセデュがボクの手を握る。必死で掴み取るみたいにして、そのまま引き寄せる。
どしんと身体が倒れ込んで、ボクはセデュに抱きしめられている。ドクドクと高鳴る鼓動が聞こえ、ボクは目を閉じる。遠い日のセデュの演奏が聞こえる。君の指先みたいに、優しい旋律が。
「…ルー、…」
ボクの名前を呼ぶ君の声が好きだ。低くて、落ち着いていて、甘くて、色っぽくて。
舌に載せたショコラみたいに、とろとろに、溶けちゃいそうになる。
「なあに?」
顔を上げると溢れそうなシャンパンみたいなセデュの潤んだ瞳があって、それがなんとも美味しそうで、ボクは微笑む。
首を傾げるとこわれものに触れるようなセデュの長い指がボクの頬を撫でて、顎先にひっかかるように止まる。
くいっと持ち上げられるようにされて、セデュの吐息が近づいて、ボクは目を閉じて、…
無遠慮なチャイムの音に、飛び跳ねるくらい、驚いた。
「うわ、わ、だ、だれだろなー! こんなおそくに…」
「…見てくる。お前はここに居ろ」
「あ、ウン…」
ボクはひとりぽつんと写真の海の中に取り残されて、天を仰いだ。
…いま、キスできそうだったよな。というか、珍しくセデュはやる気満々だったよな!
くそう、恨むぜ、誰か分かんないセデュのお客様…。
…。
…あいつあのカッコでお客様対応するつもり?




