第二幕『月影に夜風の匂い』第六場
セデュの家は、一昔前には貴族に名を連ね、世が世なら何々伯爵とか、何々侯爵とか、そういう人たちを輩出していたほどの名家らしい。
今は爵位を返上しお父さんは海運業の総取締役、おじいさんは会長、お母さんは専業主婦(といっても使用人がたーんといるので、ごくごく気楽な有閑マダムだ)。それと、小学生の妹さんがひとりいる。
パリの大豪邸(実は彼の実家はボクの実家のごく近くでもある)に住んでいたセデュはそのままそこにいれば何不自由なく暮らせたろうに、わざわざ家を出てアパルトマンで一人暮らししている。
セーヌ左岸のパリ1区、ルーブルの近くのアパルトマンだ。ボクはまだ行ったことはないけど。セデュが一人暮らししてなけりゃ、ボクだって家を出られなかったろう。さすがにセデュのご実家に世話になるわけにはいかないし、知らない人ばかりの場所は気疲れするしね。
劇場が跳ねた後、セデュの指示通りボクはまたセデュの師匠である指揮者、シモンズ先生にご挨拶して感想を述べ、演奏家たちにも一通り労いを並べて、楽屋を出た。
ぽつぽつと街灯に照らされた夜道をセデュと腕を組んで歩く。
トランクを転がしたセデュはグレーのジャケットと清潔な白いシャツ、ジャケットと同色のスラックス、イタリア製みたいな形のいい革靴を履いている。一方のボクは朝と同じ格好だ。黒の半袖シャツに白のホットパンツ。家を飛び出してきたときは真昼だったからジャケットのひとつも持ってこなかった。日が落ちると昼間の熱された空気を吹き払う風が冷たくて、ぶるりと震えればセデュは自分のジャケットを脱いで肩に掛けてくれる。ジャケットからはほのかに甘い香水が匂う。心を落ち着かせるような控えめなムスクの香りだ。なんだか胸がぽかぽかしてくる。眠くなってきたのかな。
オペラ座通りを出て20分ほど歩いて、セデュのアパルトマンに到着する。
唐草模様の手すりのついたバルコニーの並ぶ、オスマン調の小奇麗なアパルトマンだ。
エントランスを入って葡萄の房の透かし彫りのあるエレベーターに乗り込み、4階へ上がる。
ティン、と軽快な音が響いてそれが停まり、トランクを押しながらセデュはスラックスのポケットを探った。
「狭いぞ」
「わかってるって。指揮者見習い君のお給料なんてたかが知れてるもんねー」
「……。いずれは出世してみせる。実家に負けないような屋敷をパリに構える予定だ」
「うんうん、野心に燃える男ってイイねえ。がんばってー」
「使用人のいる生活はどうだ? お前は。息苦しくないか?」
「え? うーん。まあ家事全部やってくれるのは楽だよねえ。ボクは何もできないし、する気もないし!」
「お前に家事などさせないよ。…まだしばらくは、おれがなんとかする」
「心強いなア。君を頼って正解だった!」
「…他に頼る相手の候補が?」
「悪い悪い、今のは失言。だれもいないよー。ボクには君だけだよー」
「…ならいい」
もうちょっと絡まれるかと思っていたら、案外あっさり引き下がられて拍子抜けする。
うーん、今夜のこいつは機嫌がいいみたいだぞ。ならもうちょっと我儘言っちゃおうかな。今から酒盛りしたいとか? …こいつは下戸だから、酒のストックとかはないか。
ガチャリと鍵を回す音が静かな廊下に響き、キイと扉が開かれる。
ぱちんとセデュが灯りを点けて、――埃一つない清潔な廊下が、視界に入る。廊下には簡素な額縁に入れられたスコアが飾られている。有名作曲家の直筆のスコアだろうか。廊下を進むとこじんまりした客間があって、シンプルなソファやどっしりとした丸テーブル、片隅にはアップライトピアノ、簡易的な蓄音機が置いてある。その奥が寝室で、ここが一番広い。清潔なシーツの貼られたベッドに、きちんと閉められたクローゼット、本棚、シンプルなランプを載せたデスクは窓辺にある。
廊下の奥はシャワールーム兼、トイレ兼、洗面所だ。大理石調の洗面台はぴかぴかに磨かれた鏡と向かい合い、石鹸とシャンプーのいい香りがしている。
キッチンは客間の向かい側だ。油汚れなんてひとつも見えないコンロにオーブン、冷蔵庫、あと飾りっ気ない長方形のテーブルにシンプルな木の椅子が4脚。
どこもかしこも、いきなりアポなしで訪れた部屋とは思えないほど整頓されて、清潔だ。まるでホテルの部屋みたい。
「片付いてるねえ。掃除婦の才能もあるのかな、君は…」
「掃除婦になる予定はないよ。ベッドはお前が使え、シーツは洗濯してある。着替えはクローゼットに。作曲はデスクを使ってくれ」
「二人寝たら窮屈そうなベッドだね。まあくっついてればいっか」
「……。おれはソファを使う。これは一人用だ」
「えー。せっかく恋人になったのに? くっついて寝ようよー。もう我慢しなくていいんだからさー」
「……ッ、我慢しないと、駄目だろう…」
「なにが?」
どしんとトランクを寝室に置いて、セデュはなんだか居た堪れないみたいに目を逸らして、
「風呂を入れてくる。先にお前が使うといい」
と行ってしまった。
うーん、やっぱりお堅いヤツだなあ。恋人になっても難攻不落っぽいぞ。ボクがまだ18だから、未成年だから、成人するまで待つとか言ってたもんな。べつに結婚するならそんなのどーでもいいのにさ!
ボクは床に置かれたトランクを倒して、カチリとロックを外し、中身を引き摺りだしてベッドに放る。買ったばかりのドレスもブラウスも、ボクが考えなしに詰め込んだせいでくしゃくしゃになっちゃってる。…こいつは後でセデュにアイロンをあててもらおっと。
菫色のワンピースと、黒のカーディガンと、ボウタイのついたすっきりしたブラウス、白のハイヒール、菫色のハイヒール、黒のパンプス…
やばい。頭に血が上って用意したせいで、下着の類が一切ない。お気に入りの服と靴しか持ってきてなかった! 今から買出しに出てももう店閉まってるよね? はあ、明日まで待つしかないか…。
ついでに言うとパジャマもなかった。ボクは肩を落として五線譜と万年筆をデスクにセットしてから、シャワールームに向かった。




