第二幕『月影に夜風の匂い』第四場
軽やかな歌声が耳を打ち、私は顔を上げる。シューベルトの、作品32番、D550『Die Forelle』だ。見たこともないくらい上機嫌のセデュイールは小声でそれを口ずさみながらスコアにチェックを入れている。指先で器用にペンを弄びながら。
あの雨の夜、セデュイールが私を残してバーを出て行ってから、2日が経過した。あの翌日――つまり昨日――劇場の楽屋で私の顔を見るなり晴れやかに笑った彼は、昨夜の非礼を詫びて、再度礼を言って、それから――
「おれは一生分の幸福を使い果たしたかもしれない」
と、言ったのだ。
…そして今日である。
セデュイールはルーと会うことができて、そして、おそらくは彼の想いが彼女に通じて、…もしかしたらただ、弄ばれているだけかもしれないけれど、とにかく、彼は非常に満足しているのだ。彼女との関係に。もしかしたら今日も、ここに来る前、彼女と会っていたのかもしれない。
私は唇を噛む。映画俳優マルセル・ヴィオレとの熱愛報道のあったその2日後に、セデュイールと会って遊んで、彼の心を虜にしてしまった彼女が、私はやっぱり許せない。
「上機嫌だなア、何かいいことあった?」
学生時代からの私とセデュイールの共通の友人、トランペット奏者のピーターに声を掛けられたセデュイールは甘味を前にしたときのように微笑む。綻んだその表情には見覚えがある。カフェでザッハトルテやティラミスを頬張りながら私に見せてくれたその顔。ただの友人として相向かいに座った私には、決して向けられない、満足そうな笑顔、――
「秘密だ」
「勿体ぶるなよなア。一昨日、ルー様と会えたんだろ? 何があったんだよー」
「お前には言えないな」
「なんでだよー友達だろー! ルー様の唇はどんな味? やっぱりあまーいハチミツの味かなア?」
「C’est débile.」
悪友の悪ふざけを軽くいなしつつセデュイールの雰囲気は綻んでいる。わかりやすいひとだ。つい一昨日まで、地獄の底にいるみたいな深刻な顔をしていたというのに。
「セデュイール、シモンズ先生が呼んでる。俳優班の楽屋の方で」
「今行く」
丸顔のホルン奏者に呼ばれた彼はそう応じて颯爽とオケに割り当てられた楽屋を出ていく。私はひとり肩を落として、ヴァイオリンの弦を引き締める。顎に楽器を当てて弾いてみて、ひとつため息を落とす。身が入らない。プロとしてはあってはならないことだ。もう音楽学校の学生じゃあないんだから、しゃんとしなくちゃ。
時間は14時、リハーサルまではあと30分だ。
「ムッシュ・レヴォネはご不在ですか?」
黒髪をポマードで撫でつけた劇場スタッフが扉を開き確認している。練習に集中できない私は顔を上げ彼の元に駆け寄った。
「今出て行ったところ。…どうしたの、彼に用?」
「お客様がお見えでして。ロビーの方に」
「私が対応するわ。ありがとう」
スタッフは一礼して去っていく。私はヴァイオリンをケースに仕舞い、ロビーへと歩を進めた。
壮麗な円柱が並び、幾台もの燭台に煌々と照らされているロビーには人気が少ない。まだ開演前で、リハーサルの直前ということもあって、観光客の類も入ってきていない。
来訪者は、軽くウエーブする幅広の階段の下段に腰かけ、白大理石の床にぼんやりと足を投げ出していた。むき出しになった太腿が眩しいくらいに白い。日に当たることの少ない北欧の人のようだ。プラチナに近い色の薄いブロンドは軽く纏められて背に垂れている。上半身はほっそりとして、黒のシャツから肩甲骨の形が浮いている。まるで天使の羽の名残のように。
羨ましいくらいの脚線美に気を取られながら私は階段を下りて、そこにいるのが、セデュイールの思い人である、ルーであるとやっと気づいた。
「――お待たせしました。レヴォネを訪ねて見えたのは、あなたですね」
声を掛けると淡い緑の瞳がこちらを向く。燭台の灯りがその瞳に反射し、星を宿しているかのようにみえる。
「うん。そう。…この間も会ったね、こんにちは、綺麗なお姉さん。セデュはいる?」
なんてことない普段着で、トランクを抱えた彼女はしかし、これから舞台に立つひとのように輝いている。溌剌として、天真爛漫な、屈託のない笑顔がその口元には浮かび、すらりとした長身は怖いものなど何もないように堂々としている。
なぜだか打ちのめされたような気分になって私は、
「レヴォネはいないの。体調がよくないとかで…帰ったばかりなのよ」
と、言っていた。
ぱちぱちと彼女は瞬く。笑顔を消した白皙は一瞬何か考え込み、
「わかった」
とあっさり頷いた。
「じゃあ家に電話してみるね、ありがとうお姉さん」
「え、ええ、…」
「おっかしいなア、朝会った時は元気だったのに。体調が悪いの隠してやがったのかな。あいつそういうとこあるもんな。無理してデートしなくてもいいのに」
独語のように言いつつ彼女はトランクを持ち直す。…やっぱりセデュイールは彼女と会っていたのだ。だからあんなに上機嫌だったのだ。楽屋で歌を口ずさむほど。あんなにもわかりやすく浮かれて、喜んで。
――そんなふうになるほど、彼は彼女が好きなのだ。
「ごめんなさい、人違いだったわ」
「え?」
きょとんとした緑色が振り返る。陽光に照らされたオリーブの実のような、青りんごのような、鮮やかに澄んだ、その瞳。
「セデュイールなら楽屋にいます。案内するわ。ついてきて」
私は彼女を先導して、冷たい階段を上がる。
もうこれ以上みじめな気持ちになるのは嫌だった。自分で自分を、みじめにするのも。
何も知らない彼女は私の不審な言動を特に疑問に思う素振りもなく、私に素直についてきた。




