第二幕『月影に夜風の匂い』第三場
シャンゼリゼのカフェで軽くランチして、午後にまた劇場に向かわないといけないセデュは紙袋を抱えて家まで送ってくれる。
門の前で
「ここまででいいよ、ありがとう」
と手を差し出せば、
「ああ」
と紙袋を渡して寄越す。
「じゃあおしごと、がんばって」
「…ルー、」
「なあに?」
セデュは門に手を掛けたボクの前で一瞬だけ躊躇って、それからきっぱりと言った。
「今度、お前のご両親に改めて挨拶したい。日取りを決めてくれ」
「…え。あ、うん」
ボクがぽかんとしたまま頷くと、やっとほっとしたようにセデュは息を吐いて、
「Salut.」
と手を挙げて小走りに通りを渡っていった。
…挨拶かア。あのオペラ座の夜、なんか舞い上がって逆プロポーズ? しちゃったボクだけど、きちんとした挨拶とかはまだ、セデュはしていないもんな。
両親はまだボクがマルセルと付き合ってると思ってるかもだし。うん、この際ハッキリさっぱりさせて、気兼ねなくセデュとお付き合いすることとしよう。ボクのほうの仕事は、今は軽い作曲依頼が3件でー、締め切りが来月だから…ほぼ毎日劇場に詰めてるセデュより時間に余裕がある。公演終了まではあと一週間ほどだ。シーズンオフを待って予定組んだ方がいいだろうなー。なるべくちゃっちゃとすませちゃいたいんだけど、革命記念日までは休演日とかなさそうだし。
ガチャンと鍵のかかっていない扉を開けてボクは鼻歌なんか歌いながら紙袋を振り回して、
眉を顰めた姉さんに、廊下のまんなかで通せんぼされた。
「あ、ただいまー。お昼は外で摂って来たから、ボクはいらないよー」
「あなた、またセデュイールと会っていたでしょう。どういうつもり?」
「どうって?」
きょとんと見返すボクに姉さんはわざとらしいため息を吐いて、頭を抑える。
「あなたは、今ヴィオレさんと婚約中なのよ。なのに他の男の人と会うなんて…」
「は!? 婚約!? なにそれ、聞いてないんだけど!?」
「父さんとそういう話になったでしょう」
「なってないなってない!! だいたいボク、マルセルとはもう別れた…っていうか、そもそも付き合ってもいないし!!」
「なんでもいいわ、とにかくもうセデュイールと会うのはやめなさい。父さんが…」
「なんでそんなこと姉さんに言われなきゃならないのさ! ボクは好きに生きたいんだ、誰にも指図されたくない!」
「ちょっとルー、…」
姉さんがまだ何か言いかけていたけどボクは振り切って自分の部屋に向かう。ぷりぷりしながら荷物を下ろして、父さんの部屋に向かう途中、母さんにばったり行き会う。
「ただいま母さん。今度ボクの彼氏を連れてくるから」
「あらそう。父さんにもお話しなさいな。…おばあさまに頂いたマイセンの陶磁器が見つからないの。どこにしまったのかしら? …」
ぶつぶつ言いながら母さんは忙しそうに行ってしまう。
この家の決定権を握っているのはボクでも母さんでも、姉さんでもない。病気療養中の父さんだ。今はベッドから離れられないほどに衰弱しているけど、気持ちの方は全然元気な父さんだ。
ボクは気を引き締めて父さんの部屋のドアを開ける。開いた窓から微風が吹き込みカーテンを揺らす。外を眺めていた父さんはこちらを振り返り、厳格な彫像みたいな眉を上げて挨拶を促す。
「ただいま帰りました」
「ああ、お帰り、ルー」
「今日は父さんに大事なお話があります」
ボクは部屋に踏み入り、ベッドサイドに置かれた木製の椅子に腰掛ける。これは父さんの看病をするときに母さんが使っているものだ。看護師さんとか使用人とかを使うのは父さんがいやがるので、普段は母さんが甲斐甲斐しく父さんの介護をしている。
学校にも行かず働いて家にお金を入れるのはボクの役割だ。姉さんはまだ学生だし。
それならもうちょっとボクに発言権があってもいいんじゃないかっておもうけど、この家におけるボクのヒエラルキーは底辺である。家事とかは一切しないしできないけど、なんというか、家族からの視線というか、見下され方というか…ちなみにこいつはボクの普段の行いのせいだ。まあこれがボクなので、反省も恐縮もしないけどね!
ともあれ、今日は簡単に引くわけにいかない。セデュとのことだっていちおう、ボクにしては真剣に、考えてるわけだし。
「父さんに、会わせたい人がいます。父さんも知ってる人です。今度の革命記念日の翌日に――」
「お前は何を言っている? ヴィオレ君とはどうなっているんだ」
「マルセルとはもう、別れました。というか、付き合ってすらいなかったんだけど…今度の人は、」
「別れた? 別れただと? バカな。お前は彼と婚約中だろう。放蕩もいい加減にしろ」
「ボクは婚約なんかした覚えありません!」
「話しただろう。彼と我々の間でそういうことに決まっているのだ。大体、お前はあんな報道をされて、今更別の男となど付き合えるわけがなかろう。世間の人にどう見られるか…」
例のスキャンダル記事のことか。ボクはマチウに教えられて、家族には秘密にしていたのに…たぶん母さんが、買い物に行った先とかで雑誌を見つけて、父さんに喋ったんだろう。悪気は一切ないけど、迂闊な人だから。…
「世間の人がどう思おうとかまいません。ボクはマルセルとだって、疚しいことは一切していないんです」
「そんな言い訳が通用すると思うのか。お前は何年芸能界にいるんだ。もっと大人になりなさい。お前はまだ18だろう、イメージの悪化が、お前の今後の仕事にも――」
「イメージなんてくそくらえだ! ボクはやりたいようにやる! 聞いてくれないなら話はここまでです、さようなら!」
ガタンとボクは立ちあがって足早に部屋を出る。父さんの叱責に追いかけられても足を止めない。頭に血が上ってムカムカして、そのムカムカに命じられるまま、ボクはトランクを開け荷物を詰め込む。服と服と服と、靴とバッグとスコアと万年筆と、あと買って来たばかりの紙袋もひっくり返し、中身を詰めてぎゅうぎゅう押しつぶす。
バタンバタンと戸棚を荒々しく閉めるボクの騒ぎに姉さんが顔を出し、「ちょっと」と不審げな声を発する。
「何してるの。どこかに行くの?」
「出ていくよ! もうこんな家いられない!」
「何バカ言って、…行くったって、どこに? あなたがひとりで暮らせるわけないでしょう、洗濯機の使い方もわからないあなたが」
「お生憎様、ボクには彼氏がいるんだもんね! ちゃあんと自活してる彼氏がね!」
「…セデュイールの家に転がり込もうって言うの」
「そーだよ、止めないでよ! ボクはもう決めたんだから!」
トランクをバタンと閉めてロックする。持ち上げると、結構重い。手が痺れる。でもボクは挫けない。ボクは家を出ていく。もう戻らない!
「じゃあね、姉さん、さよなら! セデュとの結婚式が決まったら招待状だけは送るね!」
吐き捨てるように言って、コロコロトランクを両手で押して部屋を出る。
すれ違った姉さんは呆れかえったような目線でボクを見ていたけど、身体を避けて道を空けてくれた。




