第152話 秘湯! 熱闘! 大死闘!! 17 影の執行官
ユリオたちが、鍾乳洞温泉の洞窟入り口で秘湯に心躍らせ呑気にはしゃいでいた、まさにその頃。
仄暗い鍾乳洞の最奥、もうもうと立ち込める白い湯煙の向こうでは、先ほどクローリディアから命からがら逃げ出してきたラズが、たっぷりと湯を湛えた岩風呂に首まで浸かり、ようやく一心地ついていた。
「ふぅーーー……。生き返るねえ……。あの女の近くにいたら、命がいくつあっても足りやしないぜ」
染み渡る熱い湯に手足を伸ばしながらも、ラズの鋭い頭脳はすでにフル回転していた。
異常極まる高飛車女から受けた精神的ダメージは甚大だった。が、ラズはワレンシュルド公爵の裏の仕事を一手に引き受ける、『影の執行官』と呼ばれる手練である。ただの女たらしなどでは断然、ない。
クローリディアに振り回されながらも、確かに標的の決定的な尻尾を掴んだのだ。あの白い山羊革のブーツの靴底――間違いなく、ダルトンの小屋の跡地を踏み荒らした5人組の一人だ。
(あの自尊心の化け物みたいなブッ飛んだ女が、本当にダルトンの爺さんを殺して機密書類を奪った一味なのか? ……いや、あの様子じゃ、とてもそんな知的な隠密工作ができるタマににゃ見えねえな。ってことは、あの女の後ろに本星の黒幕が隠れてるってことだ)
ラズは湯煙を見つめ、細い目をさらに鋭く尖らせた。
相手がただのコソ泥や無知な冒険者なら、力ずくで奪い返して全員消せば済む。だが、もしあの女がどこぞの大貴族の血を引く本物のワケありで、その背後に強力な私兵や厄介な魔術師が控えているのだとしたら、正面衝突は危険だ。
なんとしても、主君であるワレンシュルド公爵の悪事を記した機密書類を、傷一つなく確実に回収しなければならない。そのためには、まずはじっくりと奴らの素性や目的、戦力を調べ上げねばならない。
そして手筈を整え、油断しているところを一挙に仕留めるのだ。
それが『影の執行官』たるラズの導き出した冷徹な作戦だった。
「待っていろよ、カンチガイお嬢ちゃん。2戦目は、必ず俺が勝つからねえ」
湯煙の中に、笑みが浮かぶ。
◇
一方、その頃。
のどかな空気が流れるヴォシュの村を目指し、大森林の険しい山道を突き進む、一人の恐るべき巨漢の姿があった。
レスキュラ伯爵家が誇る『影の執行官』――レルドンである。
その岩石をくり抜いたかのような強靭な体格と、威圧感溢れる風貌に反して、レルドンの本質は、驚くほど几帳面で神経質であった。レルドンは、力任せの破壊よりも、緻密な証拠の積み重ねを信条としていた。
レルドンは、木っ端微塵になったダルトンの小屋の跡地を、文字通り這いつくばるようにして徹底的に調査していた。そして、飛び散った破片のすぐ近くの草むらに、大量の「奇妙な粘り気のある液体」が不自然に垂れているのを見つけ出していた。
(……粘液だ。手触りは、水棲生物、あるいは両生類のそれに酷く酷似している)
普通の捜査官なら「森の巨大なナメクジの類だろう」と見過ごすところだった。しかし、神経質なレルドンは妥協を許さない。彼はヴォシュの村へ向かう道すがら、わざわざ森の中の湿地や小川に立ち寄り、自らの手で野生の蛙を何匹も捕獲した。そして、その分泌液の粘度、匂い、色を、ダルトンの小屋の現場に残されていた液体と、冷徹に、かつ精密に比較検証したのである。
そして今、レルドンは歩みを止め、深い森の中で一つの結論を下した。
「……間違いない。やはりあれは、蛙の粘液だ」
だが、レルドンの眉間の皺はさらに深く刻まれる。
現場に残されていたあの液体の量は、あまりにも多すぎた。バケツをひっくり返したかのような分量である。森に生息する通常の蛙が、一生をかけて分泌する量を遥かに凌駕していた。
(あの分量は一体どういうことだ? 常識で考えれば、普通の蛙では絶対にあり得ん。ダルトンを殺害し、我が主君レスキュラ伯爵の秘事文書を掠め取ったのは、大森林の奥に潜む『巨大な人食い蛙』の魔獣なのか……? ――いや、しかし合わん。現場の周囲に残されていた足跡は、紛れもなく5人組の人間のものだった)
現場に残された、巨大な蛙のものと思われる大量の粘液。しかし、足跡は人間。
優れた頭脳を持つレルドンをしても、この矛盾する二つの証拠のパズルは、未だに噛み合わなかった。
まさか、人間の一行の中に『耳まで裂けた大口を持つ、カエルそのものの頭の男』が混ざっているなどという、悪夢のような事実は、流石の闇の一流執行官の想像力をも超えていたのだ。
「……考えても埒があかん。確かなことは、あの5人組の足跡は、この先のヴォシュの村へと向かって伸びているということだけだ。まずは村へ入り、奴らの足取りを掴む」
レルドンは捕まえていた蛙を無造作に放り出すと、その巨体を揺らし、地響きを立てるような歩調で再び歩き始めた。
◇
そして、もう一人。
深い緑に覆われた大森林の道を、ただひたすらに、脇目も振らずに走り抜けてきた少年がいた。
マルスである。
息を荒らし、汗にまみれながら木々の隙間を抜けたマルスは、ようやく目的の場所に辿り着き、そして――我が目を疑うことになった。
「本当だ……。な……んだよ、これ……。いったい何でこんなことになったんだよ……っ!」
かつてそこにあったはずの、こぢんまりとした静かな佇まいの小屋は跡形もなく消え去っていた。
この場所は。
花の手入れが何よりも好きだった優しい老人ダルトンとともに、孤児の少年マルスにとって、世界で最高の憩いの場であり隠れ家だったのだ。
だが今、目の前に広がっているのは。
無惨に焼け焦げて炭化した木材の山と、かつて色鮮やかに咲き誇っていた草花が黒く焼け爛れた、地獄のような光景だった。
「いったい、誰がこんな酷いことを……!」
変わり果てた光景を前に。マルスの胸の奥で、改めて煮えたぎる激しい怒りの炎が燃え上がった。
ダルトンのお爺さんは、絶対に誰かに怨まれるような人じゃない。こんな残虐な真似をしてお爺さんの命を奪い、思い出をすべて踏みにじった犯人ーー絶対に生かしてはおけない。自分の手で必ず見つけ出し、罪を裁いてみせる。
怒りと悲しみのあまり、マルスは黒煙の臭いが染み付いた廃墟の真ん中で、拳を強く握りしめて立ちすくんでいた。
ふと、自分の足元に目を落とす。
そうだ、ここはダルトンのお爺さんが毎日大切に、我が子のように愛でていた自慢の花壇があった場所だ。マルスはせめてもの悼みの代わりに、焼け焦げて灰になりかけた花や草の残骸を、そっと両手で掬い上げた。
その時、何かがマルスの指先に触れた。硬い物が、灰の中に混じっていた。煤を払うようにして、マルスはその小さな塊を拾い上げた。
「……これ、は?」
釦だった。
ひどく洒落た意匠だ。この辺りの田舎では見かけることのない、珍しい形をしていた。ダルトンの私物ではあり得なかった。ダルトンはお洒落など、一切せず、アクセサリも身に付けていなかった。
「犯人が……慌てて逃げる時に落としたものか?」
マルスは奥歯を噛み締め、その釦を傷つけないよう丁寧に布で包み、懐の奥深くへと仕舞い込んだ。姿の見えない残虐な暗殺者へと繋がる、唯一の確かな手がかり。
少年は涙を乱暴に袖で拭うと、さらに周囲に別の痕跡が残されていないか、血眼になって地面の捜索を始めるのだった。
――マルスが拾い上げたその釦。
それこそは、ユリオがいつも身に纏っている狩衣の、片方の袖にあしらわれていた飾り釦であった。
ダルトンの小屋が爆発した際、その凄まじい爆風によって千切れ落ち、灰の中に埋もれてしまったのだ。混乱の中、ユリオも他の仲間たちも、そんな小さな釦が紛失したことなど、全く気づいていなかった。
◇
温泉の湯に浸かりながら、狡猾に罠を練るラズ。
圧倒的な追跡能力と緻密な計算を武器に、執念深く背後に迫るレルドン。
二人の凄腕の殺し屋、『影の執行官』たちの包囲網が、じわじわと村へ、温泉へと狭まりつあった。
そして、純粋な復讐の誓いを胸に宿した少年マルス。
ユリオが不用意に残してしまった決定的な物証を道標に、マルスもまた、ダルトン殺しの犯人に迫っていたのである。
ユリオたちは、待ちに待った秘湯を前に、自分たちに危機が迫っているとも知らず、呑気にはしゃいでいるのだった。




