第148話 秘湯! 熱闘! 大死闘!! 13 姫と殺し屋
クローリディア・リリス・ヴァーリ・リュクセムは、ヴォシュの村の広場の中央に堂々と立ち、凛とした佇まいで周囲を睥睨していた。
やわらかい陽光の下、身に纏う深紅のドレスの裾が、埃っぽい石畳の上で不釣り合いなほど鮮やかに翻る。手に持った象牙細工の扇子をパタパタと小刻みに揺らしながら、満足げに目を細める。
その姿は。
周囲から見れば、あまりにも場違い。完全に、「カンチガイした子」である。
当然ながら、広場を行き交う村人も湯治客も、そっと目を伏せて足早に通り過ぎていく。
だが。
クローリディアの脳内はすでに、村人たちが思いもよらぬ「至高のカンチガイ絶頂モード」へと突入していたのである。
本来、クローリディアのような血統正しき王侯貴族にとって、華やかなパレードを行ったり、宮殿のバルコニーに立って群衆へ「お手振り」をしたりして、下民たちにその気高い尊顔を拝ませる「顔見せ」は、統治者としての極めて重要な義務であり、仕事であった。
しかし、クローリディアにはあまりにも不遇な過去があった。わずか6歳の頃に忌まわしき呪いをかけられて以来、ずっと離宮に監禁され、世間から隔離されて育ったのだ。
そして16歳になり、リュクセム公国の正統なる君主として正式に即位した時も、境遇は変わらなかった。公国の大臣や貴族たちは、「呪われた姫」を人前に出すことを激しく嫌ったのである。彼らは「クローリディア姫は重い病気である」と国内外に虚偽の宣伝を流し、クローリディアを宮殿の玉座の間に閉じ込めたまま、ごく簡略化された形式だけで即位式を済ませてしまったのだった。
その後、クローリディアは固い決意を胸に顔を隠して公国を脱出し、シュレンとともに、この果てしないルヴォニア大森林へと逃げ込んできた。
ヴォシュの村。
辺鄙な田舎ではあるが、一応の人里である。
民衆の前に、その尊顔を晒すのは、初めてであった。
今が、リュクセム女公爵クローリディアの、記念すべき「顔見せデビュー」だったのである。
クローリディアは、周囲の冷ややかな敬遠の視線を、すべて「我が圧倒的な尊貴さと威光に圧倒され、恐れおののいて直視することすらできず下民たちがひれ伏している」と当然のように、脳内変換した。
顔見せデビュー。
大成功である。
クローリディアは、大満悦で胸を張るのだった。
◇
その自己満足は最高潮に達していた。まさにリュクセム女公爵としての威光が、このヴォシュの村を支配した、と確信したその瞬間。
背後から、滑らかで心地よく響く、訓練されたバリトンボイスが降ってきた。
「おっと失礼。あまりに眩しい美少女がいたから、大森林の妖精がうっかり太陽の下に迷い込んできたのかと思っちゃったよ。麗しきお嬢さん、良ければその不躾な男を魅了してしまった罪深いお名前を、俺に教えてはくれないかい?」
金髪を雑に結わえ、真っ赤なベストを着こなした男――ラズが、洗練された足取りでクローリディアの斜め前に回り込んできた。流れるような動作で胸に手を当て、完璧な貴族風の会釈を披露する。瞳には女性を蕩けさせるような甘い光が湛えられていた。
もちろん、ラズに高尚な敬意などひとかけらもない。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
(この無駄に自尊心の高い勘違いお嬢ちゃんを口説き落として、俺の腕の中に転がし込んでやろう)
という、いつもの不純な色男の手管であった。
しかし。
ラズの接触。
クローリディアの脳内にある「絶頂勘違いモード」のスイッチが完全に、そして致命的なまでにカチリと入ってしまった。
洒落者、色男に声をかけられた。
普通の女の子なら赤面するか警戒するところ。
だが、クローリディアは。驚いて飛び退くことも恥じらうこともなく、深く、実に深く満足そうに何度も頷いた。
(やはり! この私を遠巻きに見つめるだけしかできない意気地なしの群衆の中で、唯一、私の隠しきれない高貴さと圧倒的な美貌に抗えず、引き寄せられてしまった命知らずの庶民が現れましたわ! これは、我が罪!)
クローリディアはアメジストの瞳を見開き、ラズを頭のてっぺんから爪先まで、慈悲深い統治者、絶対の支配者の視線で見下ろした。
「ふふん、見る目だけはあるようね、下民。いいわ、この私に無断で声をかけるという不敬を、その最低限の審美眼に免じて許して差し上げますわ! 我が美の前に血迷い、理性を失って跪きたくなるその衝動……実に殊勝な心がけですこと! これほど身近で我が威光に触れられる機会など、貴方の一生に一度の誉れ。存分に私を敬い、平伏するが良いわ! おーほっほっほっほ!!」
広場に響き渡る、清々しいほどの高笑い。
ラズは。
目の前で哄笑する少女に唖然。
カンチガイした子。そうは思っていたけど。
(な、なるほど、お高くとまるタイプね……いや、お高すぎだよねぇ、こ、これは……)
その笑顔がわずかにピキリと凍りつくのだった。
◇
ラズは、その完璧な営業用スマイルの下で。
(おいおい、待て待て。なるほどねえ、思ったより筋金入りで手強いタイプってわけか。だけど……)
優雅な仕草で一歩引き下がり、改めてクローリディアを凝視する。
大森林の埃っぽい空気の中で、白磁のような肌と、神秘的なアメジストの瞳がこれ以上ないほど鮮烈に輝いている。少女が口にする誇大妄想染みたセリフをすべて無視すれば、王都の社交界ですら滅多にお目にかかれないほどの超絶美少女なのは間違いなかった。
(これほどの極上品、やっぱり素通りしちゃ男がすたる。手強い方が落とした時の快感もひとしおってね。ようし、本気で行くか!)
ラズの一流の女たらしとしての戦闘態勢が、一段上のギアへと跳ね上がった。
あの無敵のプライド。小細工を弄しても、弾かれるだけだ。
ならば、一気に勝負を決める手管に出るまで。
ラズは流れるような所作で、クローリディアの目の前の石畳に、片膝を突いて跪いた。金髪の隙間から見上げる瞳には、夜の社交界の令嬢たちを幾人も蕩けさせてきた、真摯で、かつ熱烈な光が宿っている。
「……麗しきお嬢さん。君のそのあまりにも眩しい威光の前に、俺のちっぽけな理性は完全に消し飛んでしまったようだ。どうか不敬を許し、その美しいお手を俺に預けてはくれないかい? そう、俺は姫の騎士……」
ラズはそっと手を差し伸べ、女公爵の白い右手に唇を寄せようとした。手の甲への接吻――女性の硬いガードを一気に崩し、男の情熱を受け入れさせるための、ラズにとっての絶対的な切り札であった。その仕草は、どこからどう見ても完璧な騎士そのものの美しさであった。
――はずだった。
「うむ。苦しゅうないわ!」
パシーン!!
静かな広場に、やけに小気味の良い乾いた音が響き渡った。
次の瞬間、ラズの視界は激しく揺れ、頭頂部にツンとした衝撃が走っていた。何が起きたのか分からず、ラズが跪いたまま目を白黒させていると、頭上から清々しい高笑いが降ってきた。
「おーほっほっほっほ! 我が放つ絶対的な尊貴さに当てられ、思わずその卑しい身を縮めて平伏してしまうとは。実に見事なひれ伏しぶりですこと! その神を敬うかのような忠誠心に免じて、我が愛用の象牙の扇子で、そなたのその無礼な頭を直々に撫でて差し上げましたわ! この上なき光栄に、涙を流して感謝するが良いわ、下民!」
クローリディアは閉じられた扇子を胸元に戻すと、心底から寛大で、最高に慈悲深い微笑みをラズに向けていた。
当然、クローリディアに悪意など一ミリもなかった。クローリディアの認識では、自分の威光に圧倒されて震える哀れな田舎の下民に対し、リュクセム女公爵としての「最高の恩寵と褒美」を直々に授けてやった、そういうことなのだ。
「……え?」
跪いた姿勢のまま完全に硬直したラズの口から、魂の抜けたような声が漏れた。
口説こうとして跪いたら、いきなり頭を扇子で叩かれた。
しかも、相手の少女はまるで「よく出来た犬の頭を撫でてやった」とでも言いたげな、この上なく満足げな顔をしている。
(……は? いま、俺、叩かれた? なんで? 女の子を口説いてベッドに連れ込もうとした……そのはずが、……え? 俺、この子の忠犬のポジション!? 拝領の儀式みたいなことされてんの!? 一体全体、何が起きてるんだよ……!?)
百戦錬磨の殺し屋、そして稀代の色男としてのラズの自負が、大森林の温泉村の真ん中で、ギャフンという凄まじい衝撃音と共に激しく揺らいでいく。




