第140話 秘湯! 熱闘! 大死闘!! 5 カエルの湯浴みの問題
二階の客室へと一行を案内した宿の主人は、部屋の鍵を渡し終えると、ようやく有名観光地本来の宿屋らしい誇らしげな笑みを浮かべ、帳場での気まずさを取り返すように朗々と口上を並べ立てた。
「さあさあ、お大尽様方! お部屋で荷物を下ろされましたら、何はともあれ我が村自慢の温泉へ足をお運びください! ここの湯殿は、地下に広がる本物の巨大な鍾乳洞の中にそのまま作られてございます。地底の神秘そのものでございます! その幻想的で神秘的な光景、一度見たら忘れる事は絶対にございません!」
主人はそう言って、誇らしげに胸を叩く。
「しかも、ただ湯が湧いているだけではございません。鍾乳洞の奥からは、それぞれ色も、匂いも、そして効能も全く異なる『様々な秘湯』がいくつも噴き出しているのです。肌を白磁に変える美肌の湯、長旅の筋肉を解きほぐす鉄の湯、万病を退ける硫黄の湯……。いやはや、我がヴォシュの村にあるすべての秘湯を芯まで堪能し尽くそうと思えば、丸々百日はかかりますな! ぜひとも長逗留して、銀貨を……いえ、お身体を癒していってくださいまし!」
「百日か……。さすがにそんなには滞在できねえけど、長旅の疲れを癒すには最高だな」
ユリオは耳まで裂けた蝦蟇の口を緩ませ、横にせり出した金色の眼球を輝かせる。
過酷な大森林の徒歩の旅で、足腰はパンパンに張っている。何より、頭部が蝦蟇に変わってからというもの、泥と汗が粘液と混ざり合って、皮膚が常に不快な突っ張り感を覚えているのだ。早くその神聖な地底の湯に飛び込みたくて、ユリオはウキウキと胸を躍らせていた。
その様子を横目で見ていたクローリディアが、すかさず冷ややかに扇子を閃かせた。形良いアメジストの瞳に底意地の悪い光を宿し、いつもの高飛車な笑みを浮かべる。
「オーホッホッホ! 何をご機嫌に飛び跳ねているのかしら、この蝦蟇坊やは。そんなに浅はかだから、庶民は困るのよ」
「あぁん? 何が言いたいんだよ、お前」
「分からないかしら? そんな緑色のドロドロした皮膚で温泉なんかに飛び込んだら、たちどころに熱湯で茹で上がってしまうわよ! そこらの沼にいるカエルを鍋に入れたらどうなるか、その足りない頭で考えてごらんなさいな。あ、そうね。今夜のメニューは『茹で上がったガマ蛙の温泉煮込み』で決まりだわ。まさに今の貴方にぴったりのお姿ね! 茹で上がるのが嫌なら、私たちが温泉を堪能している間、蝦蟇坊やは腐葉土の下に潜って冬眠でもしている事ね、オーホッホッホ!」
胸元の豊かな双丘をこれ見よがしに揺らしながら、残酷な言葉を浴びせてくる女公爵。ユリオはカチンときて、思わずムキになって怒鳴り返した。
「ふざけんな! 茹で上がるわけねえだろ! それに、何が冬眠だ! そんなこと誰がするか! いいか、俺の体は『人間のまま』なんだよ! ズボンも履いてるし、首から下は普通に健康な十五歳の少年の肉体だ! だから、湯に浸かるのは体だけだ!」
必死に言い返したユリオだったが。
頭は蝦蟇で、体は15歳の少年。
自分で口にしながら、その事実が告げる「圧倒的な悲劇」に気づき、急激に虚しさが込み上げてきた。
(……あ。待てよ、確かに……?)
そうなのだ。確かに、首から下は人間のままである。だが、首から上は完全に、粘液を分泌する繊細な両生類の頭部なのだ。
蝦蟇の皮膚、デリケートな頭部を、熱い温泉の湯にドボンと浸けたらどうなるか。クローリディアの言う通り、熱さと成分の刺激で、文字通り激痛にのたうち回るか、最悪の場合は脳まで茹で上がってしまう。
両生類は温泉にはつからない……どう考えても!
つまり、温泉に入ることはできる。ただし――絶対に、頭だけは湯に浸けてはならない。
それは、想像するだけでも滑稽で、あまりにも深刻な拷問のような状況だった。
(俺……湯船の中で、どうすりゃいいんだ……?)
頭は蝦蟇、体は人間の不条理。
温泉と聞いて、ついつい人間の感覚で、ドボンと浸かってさっぱりしたいとか考えちゃっていたけど。
ユリオが自分の悲惨な宿命に気づき、声を失って本気でガックリと項垂れていた、その時だった。
「……プッ」
静まり返った廊下に、小さな吹き出し音が響いた。
ユリオがハッとして振り返ると、ルルが口元を両手で必死に押さえ、きゅっと狩衣で締め付けられた超爆乳を不自然に震わせていた。
「ク、クスクス……」
その隣では、エミナまでもが長袖の狩衣の袖で顔を隠し、肩を激しく上下させている。
二人の少女の脳裏には、今、完全に同じ映像が浮かんでいた。
湯気立ち込めるヴォシュ村自慢の秘湯。その心地よい湯船の中で、首から下は逞しい少年の肉体のまま、頭部だけが巨大な蝦蟇のユリオが、顔に湯がかからないよう、必死に、本当に必死な形相で、脂汗をダラダラとかきながら短いカエルの首を水面から「にょきっ」と上へ伸ばして硬直しているシュールな姿を――。
「……おい。ルル、エミナ……。お前たち、今、俺のこと想像して笑ったろ」
ユリオが濁った声で怨念を込めて呟くと、二人は一瞬ではっと我に返った。
「わ、笑ってないわよ、ユリオ! 笑うわけないじゃない、あなたの大変な状況を……。ただ、その……もし本当に熱かったら、私が冷却魔法で頭の後ろから冷やしてあげようかと思って、その、手順を考えていただけなんだから……! ププッ」
「そうなのです、ユリオ様! エミナは心からユリオ様を尊敬しているのです! だから、お湯の中でユリオ様が茹で上がらないように、エミナがずっと後ろからカエルのお首を支えて差し上げようと、忠義のシミュレーションをしていただけ……クスクス……あ、なのです!」
ルルもエミナも、必死になって真面目な顔を作ろうと取り繕っていた。ルルは優等生らしい落ち着いた口調を維持しようと必死だが、声が震えている。エミナに至っては、語尾の「なのです!」が笑い声に掻き消えそうになっていた。
二人が自分を心配してくれる、支えようとしてくれている気持ちに嘘偽りはない。それは分かっている。だが、女子として、今の自分の「蝦蟇の頭」に抱いている生理的な拒否感と、その見た目がもたらす圧倒的な滑稽さに対して、どうしても笑いを堪えきれなかったのだ。ビミョーな少女たちの本音が透けて見えてしまった。
「……もういいよ。勝手に笑ってろよ……」
ユリオは深く、深く心が傷つき、本日何度目かも分からない絶望と共にふてくされて部屋の床へ視線を落とした。
元の美少年の顔に戻らなければ。世界で一番大切なルルーー俺の奴隷ーーの前で、俺は一生「にょきっと首を伸ばしギョロっと目を剥くカエル」のままだ。ハーレム大魔王どころじゃない。
「お嬢様、あまりからかってはいけませんよ。ユリオ殿、私の熊皮の外套は撥水性も抜群ですから、お湯の中でも首元に巻けば、カエルの頭部をしっかりガードできるかもしれません。試してみましょう」
シュレンのいつもと変わらぬ穏やかなフォローだけが、変わり果てた少年の心に、虚しく響くのだった。
熊の外套を短い首に巻きつけて、必死に頭部を守りながら温泉浴をする蝦蟇人間。
さらに、シュールで、不気味すぎる。
でも。
女子どもに笑われ、クローリディアには、「腐葉土の下で冬眠してろ!」とまで言われ、ユリオは、逆に意固地になっていた。
何があろうと。
絶対ヴォシュの温泉、浸かってやるからな!
蝦蟇の身。温泉1つ入るにも、悲愴な決意がいるのである。




