第139話 秘湯! 熱闘! 大死闘!! 4 湯治の宿
はしゃぎながら先頭を行く、クリーサの快活な案内に導かれ、木々の包囲を抜けたユリオ一行は、ついにヴォシュの村へと足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、大森林のそのまた奥、「治外の地」という不穏な響きからは想像もつかない、驚くほど整然とした美しい街並みだった。村の中心にある広場を囲むようにして、頑丈な丸太と白壁を組み合わせた、立派な木骨造の建物が幾棟も並んでいる。
(へえ……なかなかの規模じゃねえか。っていうか……)
ユリオは、横に大きくせり出した金色の眼球を左右に動かし、ある違和感に気づいた。広すぎる視野は、広場の隅々までを一瞬で捉える。
どの建物の木肌もまだ新しく、漆喰の白さにも歳月の汚れがほとんど見当たらない。どうやら、それほど古い歴史を持つ村ではないようだ。ここ数年、あるいは十数年の間に急激に発展した隠れ里――そんな印象をユリオは抱いた。
ともあれ、目指すは湯治宿である。
それは、村の中でも一際大きな二階建ての木骨造の建物で、湯気のような仄かな白い気配を纏って佇んでいた。
『湯煙の宿・木漏れ日亭』
大きく看板が出ている。繁盛している宿のようだ。
宿の入り口に到着すると、案内の大役を終えたクリーサが、栗色の二つ結びを跳ねさせて振り返った。
「カエルのお兄ちゃん、お姉ちゃんたち、ここだよ! ヴォシュのお湯、すっごく気持ちいいから、いっぱい楽しんでいってね!」
無邪気に手を振って去っていく小さな少女の後ろ姿を、ユリオは温かい気持ちで見送った。今の自分にとって、少女の偏見のない笑顔だけが唯一の救いだった。
和やかな気持ちになったユリオ。
しかし。
宿の一階の帳場に一歩足を踏み入れた瞬間、容赦なくユリオは現実に引き戻される。
「い、いらっしゃいませ……。お待ちしておりました、お大尽様方……」
出迎えた中年の宿の主人は、精一杯の営業スマイルを浮かべようとしていた。ルルから事前に金貨二枚を握らされているだけのことはある。
だが、その視線は完全に泳いでおり、ユリオの緑色にヌラヌラと湿った蝦蟇の頭部へ釘付けになっている。引き攣った顔で、主人は上擦った声を絞り出した。
「当、当のヴォシュの村は、大森林の地熱が育んだ万病に効く秘湯、湯治の里でございます! どんなお疲れも、どんな……ええ、どんな『お身体の異常』も、たちどころに癒えること、請け合いなしでございます!」
(……異常って、俺の顔のことだろ。チラチラ見やがって)
ユリオは内心で悪態をついたが、主人の言う「万病に効く秘湯」という言葉には縋りたい気持ちもあった。もしこの温泉の不思議な効能で、クローリディアの呪いごとこの蝦蟇面がドロリと解けて元の美少年に戻れるなら、金貨二枚なんて安いものだ。
どうせ、そんなにうまくはいかないだろうけど。
この宿は、一階が広々とした帳場と食堂、そして二階がいくつかの宿泊部屋に分かれている構造だった。
ルルが手際よく交渉し、部屋は「男子部屋」が一つ、「女子部屋」が一つの、計二部屋を押さえることで話がまとまりかけた。
「お待ちになって頂戴!」
そこへ、背後から扇子を激しく閃かせながらクローリディアが割り込んできた。深紅のドレスの胸元から、豊満な双丘を憤慨のままに波打たせ、アメジストの瞳を吊り上げる。
「大貴族でありリュクセム公国の現当主たるこの私が、なぜ庶民と同室で雑魚寝をしなければならないの!? 帳場の者、私一人のために、最高級の絹の寝具を調えた特上のスイートルームを用意しなさい! 今すぐよ!」
「クローリディア、我が儘を言っちゃダメなんだから」
ルルが、きゅっと締め付けられた超爆乳の胸元を微動だにさせず、冷徹な優等生ボイスで遮った。
「ここは王国法も届かない隠れ里の宿よ。王宮のような特上室なんてあるわけがないんだから。安全のためにも、女子は一部屋にまとまっていた方が都合がいいわ。……それとも、公国の追手が怖いから、シュレンと同じ部屋に泊まりたいの? クローリディア、貴方、シュレンと一緒の部屋のほうがいいのかしら?」
「なっ……! 貴女、無礼者! 何を破廉恥なことを!」
クローリディアは瞬時に顔を真っ赤に染め、ぷいと傲然に顎を尖らせてそっぽを向いた。大貴族として取り乱す姿を見せるのは非常にはしたない。速攻で威厳を取り戻したクローリディアは、「ふん、安全という観点から、今回だけは同じ部屋で夜を明かしてあげてもよくてよ」と、欲張りなプライドを精一杯取り繕った。
「では、お部屋へご案内を……」
主人がホッとしたように鍵を手に取り、一同が二階へ上がろうとした、その時だった。主人がコホン、とわざとらしい咳払いをして、ユリオを横目で凝視した。
「あ、あの……お大尽様方。誠に申し上げにくいのですが……もし、万が一、お部屋の布団や敷布などの寝具を……その……何かで……いや、緑色の粘液などで汚された場合は……別途、莫大な洗濯代、あるいは寝具の買い替え費用を請求させていただきますので、あしからず……ええ、こちらも商売でして。こういう事はきちんとさせておかないと」
ぐぬぬ……
(うわ……。やっぱり俺のヌルヌルを気にしてやがる……)
あからさまな黴菌厄介者扱いに、ユリオは本日何度目か分からない「ギャフン」を味わい、頭を抱えた。自分の体から分泌される粘液が、宿のシーツを汚す恐怖。これはさすがにヘコむ。
「それならば、ご安心を」
すかさず、隣にいたシュレンが穏やかな笑顔で助け舟を出した。
「私の私物に、以前狩った大熊の極厚の皮外套がございます。ユリオ殿の敷布の上にそれを敷いて寝ていただければ、宿の寝具に粘液が染みることは決してありません。それでよろしいですね、主人?」
「おお、それならば文句はございません!」
主人が手を叩いて喜ぶ。ユリオも「シュレン、恩に着るぜ……!」と蝦蟇の口を緩ませた。
だが、その安堵を打ち破るヒステリックな悲鳴が響き渡った。
「絶対にダメよ!!! 論外だわ!!!」
クローリディアが、まるでこの世の終わりかのような形相で叫んだのだ。
「シュレン! 貴方、正気なの!? その大熊の外套は、私の大事な調度品や最高級の着替えが入った、あの大荷物と一緒に梱包されているのよ!? そんな蝦蟇の粘液まみれになった不潔な外套を、旅に出るとき、また私の荷物の中に突っ込むつもり!? 私の大事なドレスに、そのドロドロの油や匂いが移ったらどうするのよ!」
「お嬢様、ご心配なさらず。私の私物はきっちり油紙で厳重に梱包いたしますので、お嬢様のお荷物と混じることは決してございません」
シュレンは慣れた様子でニコニコと宥めるが、クローリディアの興奮は収まらない。胸を激しく上下させながら、怒りのままに捲し立てる。
「信じられないわ! 梱包したって、呪われた『蝦蟇の油』なんて概念そのものが防げないわよ! 不潔よ、悍ましいわ! 私の人生に、カエルなんていう下等生物の要素が少しでも関わること自体が耐え難いのよ!」
「ははは、お嬢様はカエルがお嫌いですか。ですが、これまでの長旅の最中、私たちが野宿をしていた荷物の中に、小さなアマガエルが迷い込んで飛び込んできたことは、何度かありました。なに、カエルなんて可愛いものです」
「……………………え?」
クローリディアの動きが、完全に停止した。
白磁のような美肌からサァッと血の気が引き、アメジストの瞳が恐怖で泳ぐ。
「シュ、シュレン……? 今、なんて言ったの……? 私の、私の知らないところで……あの緑色の、ピョコピョコ跳ねる、湿った生き物が……私の荷物に……触れて……?」
「ええ、微笑ましいくらい元気に跳ねていました」
「ひ……っ、う、嘘よ……嘘……嫌ぁあああああ!!!」
クローリディアは白目を剥き、あまりの精神的衝撃に卒倒しそうになりながら、シュレンの逞しい腕にしがみついた。大貴族の威厳もへったくれもなく、ただの極度のカエル嫌いの小娘として恐怖に震え上がっている。
その様子を、ユリオは飛び出た蝦蟇の目で冷ややかに見つめていた。
(……お前、俺を散々ガマ蛙って罵っておきながら、ただのアマガエルでそこまで取り乱すのかよ。本当に終わってるな、この性悪女公爵……)
宿の主人のやや呆れながらの案内で、一行は混沌とした帳場を後にし、ようやく二階の客室へと向かうのだった。




