第132話 殺し屋 1 降ってきた黒猫
ルヴォニア大森林。
樹々の梢から差し込む陽光が、キラキラと大地を彩っている。
穏やかな光景。
しかし。
一行の誰も口をきかない。皆、一様に押し黙っている。
ただ、湿った土を踏みしめる音と、クローリディアが時折漏らす「退屈だわ」という溜息だけが静寂を破っていた。
その時だった。
ガサガサッ!
頭上を覆う大木の梢が、不自然に大きく揺れた。
「なんだ!?」
見上げるユリオの視界に、空から黒い塊が降ってくるのが映り込んだ。
ドサッ!
それは、最後尾を歩いていたルルの胸の上に、吸い込まれるように落ちた。
「……っ!? な、何!?」
ルルが短い悲鳴を上げて足を止める。
この魔法使いの少女の胸は、革の狩衣でしっかりと締め付けられているものの、抑えきれない圧倒的な質量を誇っている。その柔らかなクッションの上に、まるまると太った一匹の大きな黒猫が、見事に着地していた。
「あら……猫?」
ルルは驚きながらも、自分の胸の上に居座る黒猫を見下ろした。黒猫はまるで自分の寝床を見つけたかのように、ルルの豊満な双丘の間に収まり、気持ちよさそうに目を細めている。
「ちょっと、そこをどいて。歩きにくいんだから」
ルルが困惑した顔で、黒猫をどかそうと手を伸ばした。すると――
「ここ、ふかふかですごく気持ちが良い。しばらく居させて」
「ひっ……!? しゃ、喋ったのです!?」
エミナが飛び上がって驚いた。
ユリオも、蝦蟇の目を限界まで見開いて硬直する。声の主は、間違いなくルルの胸の上の黒猫だった。
「猫が……喋ったのかよ?」
「驚くことはないさ、体の下半分だけ少年の形をした蛙くん。この森ではよくあることだよ。君の方が、よっぽど見かけない姿だね」
黒猫は落ち着いた様子で返事をした。そして、ルルの胸の柔らかさを確かめるように、前足でふみふみと足踏みをする。
「君たちはどこに向かっているの?」
自分の胸が黒猫の玩具にされたルルは顔を赤らめ、潔癖な性格ゆえの恥ずかしさと戸惑いを隠せない。だが、相手が猫であるためか、いつもの優等生らしい口調でなんとか答えた。
「……ダルトンのところよ」
「それは好都合だ。実は僕もダルトンのところに行くところだったんだ。だけど、道に迷ってしまってね。だから樹の上に登って、探していたんだ。じゃあ、このままダルトンの所まで連れて行ってくれ。僕はこのふかふかのクッションで休んでいることにするよ」
黒猫は当然のようにそう言うと、再びルルの胸に顔を埋めた。
「そこ、クッションじゃないんだから……! もう、困ったわね。本当に勝手なんだから!」
ルルは困ったように眉を下げたが、無理に放り出すこともできず、黒猫を抱えるようにして再び歩き出した。
「オーホッホッホ! 面白い猫ね。私に相応しい余興になりそうだわ」
シュレンの肩の上で、クローリディアがいつもの高笑いを上げた。
喋る黒猫という奇妙な同行者を加え、一行はさらに森を進んでいく。
◇
再び歩き出した一行の静寂を破ったのは、やはりルルの胸の上で寛ぐ黒猫だった。猫は琥珀色の瞳を細め、前足でルルの胸の弾力を確かめるように交互に突きながら、感心したように呟いた。
「ねえ、君。どうして君の胸はこんなにふかふかなの? まるで王宮の最高級の羽毛布団みたいだ。吸い付くような柔らかさで、一度入ったら出られなくなるよ」
ルルは顔を真っ赤にしながらも、持ち前の生真面目さで問いを返した。
「……そんなこと聞かれても困るわ。じゃあ、どうしてあなたの体はそんなにモコモコなの? まるで手入れの行き届いたぬいぐるみのようなんだから」
「これは生まれつきの毛並みさ。君のふかふかと僕のモコモコ、最高の相性だと思わないかい?」
黒猫は鼻を鳴らすと、今度は少し首を捻って、横を歩くユリオを見上げた。
蝦蟇の大きな眼球が、左右別々の方向を向いて黒猫を捉える。
「ところで君、頭と体が別々だけどさ。時々、蛙の頭と人間の体が喧嘩したりしないの? 右に行きたい脚と、虫を食べたい頭で、体がバラバラになっちゃったりとかさ」
「……喧嘩なんかするかよ」
ユリオは忌々しげに、濁った声で吐き捨てた。
「俺の意識は一つだ。虫なんか食いたくないし、脚だって俺の言うことを聞いてる。……余計なお世話だ、この泥棒猫」
猫風情が俺のルルの胸に。実にけしからん。
「おや、手厳しいね。蛙はもっと忍耐強い生き物だと思っていたよ」
黒猫はくすりと笑うような声を出すと、次に視線をエミナへと移した。エミナは弓を握る手に力を込め、獲物を品定めするような鋭い目で猫を見ている。
「君は狩りが好き? その目は……僕を狩りたいと思ってるのかい?」
「狩っても良いのですか? その黒い毛皮は、とっても暖かそうなのです!」
エミナが真顔で、しかも本気で尋ね返すと、黒猫はニヤリと口角を上げた。
「今はダメ。でも、もう少ししたらね。僕が食べごろになったら声をかけてあげるよ」
猫は軽くいなすと、シュレンの肩の上で威厳たっぷりに座っているクローリディアを見上げた。
「ねえ、君。どうして君は自分の足で歩かないの? せっかく立派な脚がついているのに、宝の持ち腐れじゃないか」
「なんですって!?」
クローリディアは待ってましたと言わんばかりに、扇子を広げるような仕草で胸を張った。
「いい? よくお聞きなさい! この私――リュクセム公国の当主たる者が、このような湿った泥の上を、庶民と同じように歩くはずがないでしょう! 私の足が触れて良いのは、磨き抜かれた大理石か、最高級の絨毯だけなの! 高貴な者は常に天に近い場所にあるべきであり、シュレンの肩は私にとって移動する玉座も同然。下々の者が歩く姿を上から見守るのが、統治者の義務というものよ! オーホッホッホ!」
力説するクローリディア、大森林に高笑いを響かせる。だが黒猫は既に興味を失ったのか、クローリディアの御託を聞き流してシュレンに話しかけていた。
「そこの大男。そのお嬢さんを担いで、重たくないのかい?」
シュレンはいつもの柔和な笑顔を絶やさず、穏やかに答えた。
「いえいえ。君を抱えているルルさんが感じている重みに比べれば、これくらい全然大したことないですよ」
「違いない。あっちの重みは『幸せの重み』だからね」
黒猫は満足げに丸まると、ルルの胸に深く顔を埋めて嘆息した。
「本当にこれは最高のクッションだ。王様のどんなソファよりも、森のどんな苔よりも素晴らしい。こんなの久しぶりだよ。……ああ、最高だ」
ルルは、もはや反論する気力も失ったのか、何も言わずにただ前を見つめて歩き続けた。
奇妙なおしゃべりが一段落すると、再び森に沈黙が戻ってきた。聞こえるのは風の音と、ユリオたちが踏みしめる溶岩地の乾いた足音だけ。しかし、その静寂は以前のものより、どこか張り詰めたものに変わってきていた。
ルルに緊張が走っている。
黒猫は、気づいていた。
一行の目的地。すぐそこだ。




