第131話 月下、水浴のルルーシア 下 自分との約束
光が収束し、輪郭が確かなものとなったとき、ルルは息をすることさえ忘れていた。
泉の上に立つその姿。
それは、あまりにも唐突で、あまりにも場違いで……そして、あまりにも「自分」だった。
そこにいたのは、琴見咲良――数ヶ月という月日の彼方に置き去りにしてきた、かつての自分の姿。
魔防戦衣も、強大な魔力も、宿命の重みも知らない、どこにでもいる日本の女子高生。紺色のセーラー服の襟が夜風に揺れ、短い靴下から覗く足は、今の自分のような「女神の肢体」ではなく、まだ幼さの残る等身大の少女のそれだった。
「咲良……」
声にならない震えが、ルルの唇を漏れる。
向き合う琴見咲良は、困ったような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
(どうしたの? そっちの様子はどう?)
声は聞こえない。けれど、その瞳が、その唇の動きが、かつての日常の続きを語りかけてくる。
その瞬間、ルルの目から、大粒の涙が溢れ出した。
この異世界に召喚され、異端魔法団に拾われ、血の滲むような修練の果てに「ルルーシア」として生きることを強引に受け入れてきた。張り詰めていた心の糸が、自分自身の優しい微笑みを前にして、音を立てて千切れた。
不意に、周囲の情景が歪み、書き換えられていく。
ルヴォニアの深い森も、神秘の泉も消え、そこには眩しいばかりの「元の世界」が広がっていた。
蝉の声が降り注ぐ夏の通学路。チョークの粉が舞う教室。テニス部のコートで高く打ち上げたボールの白さ。夕食の準備をする母の包丁の音と、テレビを見ている父の笑い声。
ルルにとって、何よりも愛おしく、もう二度と触れることのできないはずの、琥珀色の記憶。
「あ……あぁ……」
ルルは声を上げて泣いた。腰まで泉に浸かり、裸身を月下に晒していることさえ忘れ、子供のように顔を覆って泣き続けた。溢れ出る涙は止まることを知らず、温かい記憶の濁流が、ルルの頑なな魔術師としての仮面を洗い流していく。
やがて、幻影の街並みがゆっくりと溶け、再び琴見咲良の姿が鮮明になった。
セーラー服の少女は、泣きじゃくる「今の自分」へと一歩近づき、その透き通った瞳でルルを見つめた。
(あなたなら、大丈夫)
琴見咲良は、確かな意志を込めて頷いた。
(あなたはきっと、その宿命の道を果たすことができる。私たちが選んだ道だもの)
その微笑みを最後に、光の少女は粒子となって夜空へと昇っていった。
あとには、静寂を取り戻したルヴォニアの森と、濡れた肢体を震わせながら、一人立ち尽くすルルの姿だけが残された。
◇
どのくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろうか。
溢れた涙が頬で乾き、夜風が濡れた肌を冷たく撫でるまで、ルルは動くことができなかった。ふと見上げれば、天頂にあった月はいつの間にか西へと大きく傾き、神秘の泉を照らしていた光の柱も、その角度を変えていた。
思っていたよりも、ずっと長い時間が過ぎ去ってしまったようだ。
(戻ろう。私の、今の居場所へ)
ルルは静かに岸辺へ上がり、持ってきた布で体を拭くと、脱ぎ捨てていた魔防戦衣を再び身に纏った。留め具を締めるたび、さっきまで裸身を包んでいた解放感は失われ、代わりにある種の覚悟がその胸を満たしていく。
深いシダの葉を掻き分け、野営へと戻ると、焚き火は小さな種火となって赤く揺れていた。
ユリオは草の上で幸せそうな寝息を立て、クローリディアは毛皮の上で眉間に少しだけ皺を寄せながら高貴な眠りの中にいる。エミナとシュレンも、変わらぬ様子で深い眠りの淵に沈んでいた。
幸い、ルルがいないことに気づいた者は誰もいないようだった。
ルルは一人一人の寝顔を、慈しむように見つめた。
さっきまで流していた涙の理由は、決して悲しみだけではない。自分の中にあった琴見咲良が、今の自分を認めてくれたから。
ルルは小さく微笑むと、ユリオたちのそばにそっと横たわり、再び静かな眠りに落ちていった。
◇
やがて、夜が明ける。
ルヴォニアの大森林が、東から差し込む黄金色の光を受けて、一斉に輝き出した。
夜の静寂とは打って変わり、目覚めた鳥たちの歌声と、生命力に満ちた森のざわめきが、生きる喜びに満ちた世界の新たな始まりを告げている。
「ちょっと、ユリオ! 朝っぱらからその汚い顔を近づけないでくださる?」
「んだよクローリディア、勝手に近くで寝てたのはそっちだろ!」
いつもと変わらぬ、騒がしい朝の風景。
「ユリオ様、ルルさん、おはようなのです! 今日の獲物は何にするのです! 昨日の山鳥の肉、まだ残ってたかなのです!」
エミナが弓の手入れをしながら明るく声をかけ、シュレンは今日の進路を黙々と確認している。
それは、この異世界におけるルルの「当たり前の日常」だった。
かつての日本の風景とは何から何まで違うけれど、今、目の前で笑い、怒り、共に歩む仲間たちがいるこの世界が、ルルにはたまらなく愛おしく感じられた。
17歳の魔法少女ルル。ルルーシア=琴見咲良。胸元で微かに揺れる豊かな重みと、その奥にある確かな鼓動を感じながら、新しい一歩を踏み出すために立ち上がった。
◇
【ルル視点】
ああ、なんて眩しい朝なのだろう。
木漏れ日がルヴォニアの巨木の間を縫って、私の視界を黄金色に染め上げていく。
つい数時間前まで、私はあの冷たく、けれど優しい泉の底で、自分自身の亡霊を見ていた。いいえ、亡霊なんて言ったら、あの頃の私に失礼ね。あれは紛れもなく、私――琴見咲良だった。
まだ、4ヶ月。たった4ヶ月。
でも、私にとっては。一生分にも等しい密度の時間が過ぎた気がする。
あの日、忌木信太朗君の葬儀の帰り道。あの瞬間の感覚を、私は今でも鮮明に覚えている。ふいに空が不自然に歪んで、気づいたときには、私はこの見知らぬ大地の、冷たい石畳の上に倒れていた。
召喚。宿命。救世。
投げつけられた言葉のどれもが、当時の私には安っぽいお話の台詞にしか聞こえなかった。
拾ってくれた養親スフィリアのもとで魔法のいろはを叩き込まれている間も、私はずっと、これは質の悪い悪夢なのだと信じて疑わなかった。鏡を見るたびに、自分が変わってしまうのではないかと怖かった。自分が自分でなくなる、別の何かになってしまう、それがとても怖かった。
けれど。
月の光に現れた琴見咲良。
以前の私。笑っていた。
セーラー服を着て、まだ何も知らなかった頃の私が、今の私を見て「大丈夫」と言ってくれた。
あの瞬間、私の心の中で、二つの世界が初めて一つに繋がった気がする。
琴見咲良が過ごした、あの穏やかで、少し退屈で、でも最高に幸せだった日本の日常。
母が作るお味噌汁の匂いや、部活帰りに友達と食べたアイスの味、テスト前の図書室の静けさ。それらは、私がこの過酷な異世界で自分を見失わないための、唯一の錨だった。
そして今、私の目の前にある、この騒がしくて不自由な日常。
「おいルル、いつまでボーッとしてんだよ!」なんてガサツに声をかけてくるユリオ。高慢なくせに、実は一番寂しがり屋なクローリディア。太陽のような笑顔で私を支えてくれるエミナに、寡黙な優しさで背中を預けてくれるシュレン。
正直に言えば、今でも時々、すべてを放り出して日本へ帰りたくなる。帰れるのであれば。
テニス部のコートに立って、何の意味もないお喋りに花を咲かせたい。
でも、今の私には。この手で掴み取れるはずの魔法がある。この肉体に宿した膨大な魔力は、誰かを守るために、この愛すべき仲間たちの未来を切り開くために与えられたものなのだと、ようやく思えるようになった。
私がルルとしてこの道を歩むことは、琴見咲良としての自分を殺すことじゃない。
昔の私が持っていた「日常を愛する心」を、この戦乱の世界で形にするために、私は召喚されたのだ。
宿命、なんて言葉は、まだ少し重たいけれど。
それでも、私がこの世界でルルとして生き抜くことが、元の世界で私を愛してくれた人たちへの、せめてもの誠実さだと信じている。
ユリオとクローリディアが、また下らないことで言い争っている。
エミナが焼く干し肉の、少し焦げた匂いが漂ってくる。
この世界は、残酷で、不条理で、それでいて、泣きたくなるほど美しい。
私は、魔防戦衣の胸元をぐっと引き締めた。
さようなら、昨夜の私。
おはよう、今日の私。
私はルル。ルルーシア。〝白月王の樹魔法団〟のルルーシア。琴見咲良の魂を抱き、この異世界の空の下で、自らの宿命を愛することを誓う、一人の魔法使い。
さあ、行こう。
この大森林の先に、どんな困難が待ち受けていようとも、私はもう、自分の足で、一歩も退かずに進んでみせるんだから。
( 月下、水浴のルルーシア 了 )




